美・知との遭遇 美術教育見聞録 学び!と美術

美を感受する範疇

移りゆく社会の中での美意識の変遷
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 「おふくろの味」という味覚があります。我が家では、特に私が味噌汁を好まなかったため、それは漬け物の味でした。夏になると、その懐かしい味であるぬか漬けの茄子やキュウリが恋しくなります。自分でその味を再現しようと試みてもなかなか成功しません。その味は、我が家というごく限られた中での成育歴が生み出した味覚の美意識ですが、道産子ラーメンやもんじゃ焼きなどのように、その地域独特の味覚として共通に好まれる味もあります。地域の風土や生活習慣などから生じたローカリティーの一つだと思われます。また、海外旅行に出かけると、無性に日本料理が恋しくなります。現地の味覚への好奇心はすぐに萎えてしまい、日本料理店や寿司屋に足が向きますから、私たちの味覚の好みは、根の深いところで私たちの感覚そのものとして身に付いてしまっていることがわかります。

  • 画像:刺青の見本図案
  • 画像:風神雷神図屏風[俵屋宗達]
  • 画像:『富嶽三十六景』より神奈川沖浪裏[葛飾北斎]

 視覚的な好みや美意識にも同様の傾向があるように思います。
 視覚は他の感覚を代表しますから、臭いや音なども総合して風景が懐かしく感じられたり、癒されたりしている自分を感じる情景があります。山を想像して描いてみると、無意識に見慣れた形や慣れ親しんだ稜線に似た形を私たちは描いているはずです。また、日没の夕焼けイメージとして、明度差の際立った山脈のシルエットに沈む夕日を思い浮かべる方と、水平線上にいつまでも残光の余韻を残しながら沈む夕日を思い浮かべる方がいるでしょう。水平線のイメージだけでも、海の近くで育った人と山育ちの人では、心情は大きく異なるのではないかと思います。それらが私たちの想像力の基盤にあり、美意識の有り様に揺るぎなく影響していると思われます。
 それらはごく単純に、幼い頃からのどこかの場面で他者の「美しいなー!」という感動の場面に遭遇し、それが繰り返し体験として刷り込みが行われた結果であるとも考えられます。おふくろの味も夕焼けの感動も、初対面から好みとして私たちに感受される十分な傾向をもっていたとしても、それに対しての美的な価値づけがどこかで体験されたからこそ、特別な感覚として位置づいているのではないでしょうか。そして、その多くの影響を与えるのは、まず、家族であり、仲間であり、教師だと考えられます。

 図1は、かつてのヤンキー君たち(中学生)が好んで制服に施した刺繍の見本図案です。この中から気に入った図案を選んで制服への刺繍を注文していたようです。その彼らが教科書や美術資料などから気に入った絵として選んだ作品が図2・3です。他の生徒はマグリット(Rene Magritte)やキリコ(Giorgio de Chirico)を選ぶことが多い中で、彼らの美意識は特異であったと記憶していますが、後に出現するルーズソックスよりは『美の範疇』を彼らと共有できた気がします。

  • 画像:ヴィレンドルフのヴィーナス
  • 画像:鏡[伊東深水]
  • 画像:坐る裸婦[オーギュスト・ルノワール]

 図4は、ヴィレンドルフのヴィーナスと呼ばれる旧石器時代の小さな作品(11cm)です。角界にも見当たらない程の豊満な肢体ですが、一般には多産などの祈願などに使われたと説明されます。
 旧石器時代ということはB.C.数万年と考えられます。その後に続くエジプト時代(B.C.3000~)の平均寿命は20歳前半だとされています。その頃でも50歳まで生きることは希なことだったでしょうから、この作品がつくられた時代の乳幼児・母体の死亡率や疫病を考えると、丈夫で多産がなによりの『美意識の範疇』であったことは十分理解できることです。

 紀元前2世紀頃の作とされるミロのビーナスは、現代人にも通じる美意識が感じられますが、腕の太さや腰回りの逞しさなどに注目すると、やはり健康美が強く意識されていることがわかります。
 その逞しい健康美の系譜はごく最近まで続いています。現代のような痩せた肢体が『美の範疇』となったのは、ケネディ大統領の時代以降と言われます。図5・6の作品からもふくよかさが美の重要な要素であることがわかります。
 ところが、世の中の食生活が豊かになるにつれ、体脂肪は『美の範疇』から、また、医学的な見地からも歓迎されなくなったのです。欧米の住宅宣伝パンフに登場する主婦像は、豊満から痩せ形へと1960年代に大きく転換したと聞いています。それは突然に訪れた価値観の変化であったように思います。日本が豊かになり始めた40年近く前に、ツイギーというモデルが来日した日のニュースが鮮明に記憶されています。病的に痩せた骨と皮だけの肢体は、成人直前の私の『美の範疇』にはなく、驚きと衝撃が私の常識を撹拌しました。めまぐるしく変化する社会とは、私たちが『美を感受する範疇』までも大きく転換させているのでしょうか。