美・知との遭遇 美術教育見聞録 学び!と美術

盗まれるやつの責任

社会と美術の関係で例えてみると…
画像:今月のPhoto トカゲのケンカ

 「人の物を盗みたくなるような気持ちを起こさせるやつが悪いのであって、そういうやつは人を泥棒に心ならずも仕立ててしまうやつなのだ。」という『開口閉口』(開高健著 新潮文庫 1979)のフレーズがしばらく気になっていました。外国人の自国擁護の台詞です。巧みな泥棒の言い分に感心したのではなく、私たちもどこかで“人を見たら泥棒と思え“という教育を受けていることを思い出していたのです。現代の日本では全く通用しない泥棒の一理であると思いながらも、逆説的にはそう認めているとも言えなくはないと考えてしまったのです。
 トカゲの影響ではないのですが、その状況を限定的に解釈し、盗むものと盗まれるものを男女の心理関係に例えると、泥棒の言い分が男の言い分に通じるところがありそうだと言えそうです。
 例えば、最近の若い女性に「男をなんだと思っているのだ。」と言いたくなる現実があると感じませんか。平和な日本だからこそと思えるような不用意な行動によって被害を受けた事件の報道を聞くたびに、どこかで教わってこなかったのかい「チャンスがあれば人のものを盗もうとするやつより、不純な目で女性を見る男の数がまちがいなく多い」と…。その一方で「女性専用車両」に飛び込んでしまったような心境で街中を歩く純粋な男性も多いのですが…。

 そんな下世話な例から「美」の話に入るのは不謹慎と思われるかもしれませんが、チャンスがあれば盗もうとする人と盗まれる人を、社会と美術の関係として例えたくなりました。社会とは、美術作品を見て批評したり、私も表現したいと思う人たちの集団のことです。

 数年前のことになりますが、講演会で紹介されたJ.ギブソンの「アフォーダンス(affordance)」という言葉が私の周辺でミニブームとなったことがあります(私の研究室だけかもしれません)。
 アフォーダンスとは、環境やものが、私たちが意図する以前に、行為や考えを引き出そうとする客観的な構造を有しているとする心理学用語です。例えば、山道の途中で切り株を見つけると、私たちが座ろうとする前に「座れるよ」と、切り株が語り掛けているのだというのです。そこに人がいて、ものがアフォードしていることを受容できるからこそ成立する、静かなる対話です。「人の物を盗みたくなるような気持ちを起こさせる」私たちも、泥棒さんに盗めることをアフォードしているとでもいうのでしょうか。このアフォードとは、意図してつくられたものの機能や使用目的だけを言うのではないようです。椅子は時には脚立として役立ち、、テーブルとしてアフォードもしています。
 つまり、私たちは常に自らの側から見た「もの」の存在価値を、常識として認識するだけにすぎないことをアフォーダンスは教えています。ものの側から人に何を訴えようとしているのか、また、煽動しようとしているのかを、周りにあるものが静かに発信していることに気付かされた新鮮な視点がブームとなったのだと思います。

 改めて椅子を観察すると、私たちは人がつくった椅子を、まぎれもなく椅子として認識することができます。説明書を読まなくても、それをどのように使用してほしいかという設計者のデザイン意図やコンセプトを読み取ることができます。もし、椅子の4本の脚の間に体を入れ、椅子は何かを背負うためのものであると誰かが認識したとしても、特別な場合を除いて、椅子はそんな風に使うのではないと教えるでしょう。
 まず基本的に、何を意図してその人工物が制作されたのかを美術では重要とします。アイデアは小さな心遣いとして表されていたり、使い勝手のよさとしてデザインされたりします。そしてその意図するところとしないところが私たちに「使ってみてください」「味わってみてください」と、作品たちは静かに訴え、煽動しようとするのです。代金と引き替えに奪われることを望んでいたり、時にはアイデアを盗んでつくってみることを許したりもします。展示会や買い物でものを観てまわる楽しさもそこにあるのかもしれません。
 私の研究室にある二冊の「広辞苑」も活躍します。本来の用途のために開かれることより、はるかに多く仮眠の枕かスキャナーの天蓋の重しに活用されます。枕という発想は眠気に襲われたときに「枕に最適だ」という知人の言葉を思い出したからです。スキャナーの重しへの転用はとっさのアフォードでした。

 私たちが近年目にする高い技術による美術作品や、材料を巧みに加工した商店街のディスプレイも、人間技を身近に感じることが困難なほど精巧になってきました。「私もそのように表現してみたい。」とか、「独自の美を求めてみたい。」、「より美しいものを観たい。」などと煽動するというより、端からあきらめの境地に追いやる作品もけっして少なくありません。作品が、「表現してみようよ。」と、鑑賞者から表現者へと誘うことが少なくなったようです。作品が情報の発信元として、受信する側に、美を盗んで再現したい欲求を起こさせたり、技を盗もうとする本性を発現させる存在でもあるべきだと訴えたいのですが、状況は逆のようです。私たちが人やものから発信される「盗ませようとする煽動」を受けとめる感性を失っている、使い捨て文化もその一因でしょう。「技」や「労」をものづくりの心として知る子どもたちであってほしいものです。

 授業の中で生まれる拙い作品にも彼らの背丈に合わせた学びが潜んでいると思うとその価値は無限大です。
 美的な創造行為が優れた生涯学習であると確信できるからこそ、表すことの楽しさを子どもたちの側から感じたり、味わったりすることを美術は学習の中核に据えているのです。