学び!と美術

学び!と美術

「揚げパン」の「ひらめき」
2021.06.10
学び!と美術 <Vol.106>
「揚げパン」の「ひらめき」
奥村 高明(おくむら・たかあき)

 美術鑑賞の話題が続いていたので、造形活動の話に戻りましょう。「学び!と美術」3月号「ひらめきが生まれる授業」の続きを考えてみました。用いるのはNHK「チコちゃんに叱られる」で取り上げられたエピソード「なぜ給食に揚げパンが出るようになったのか」(2020年10月23日放映)です。

なぜ給食に揚げパンが出るようになったのか

 「揚げパン」は、子どもたちに大人気のメニューですが、その発祥については長く知られていませんでした。それが分かったのは、2000年を過ぎてから。NHKはその「揚げパン」が生まれた場面を番組として取り上げます。

 きっかけは「なつかしの給食 献立表(※1)」という本です。いろいろな給食の出自やレシピ、思い出などを掲載した本です。「カレーシチュー」や「鯨の立田揚げ」に並ぶ三大人気メニューの一つとして紹介されたのは「揚げパン」です。ただ、それはお詫びから始まっていました。

「揚げパンのルーツ」
 まず、最初に読者にはお詫びをしなければならない。揚げパンがいつどこで、どのようにして生まれたかは、ついにわからなかった。昭和20年後半の学校給食メニューで揚げパンが登場するのは確認できた。
 文部省にも聞いてみた。全国パン協同組合にもきいた。山崎パンにも電話した。しかし、ついにタイムオーバー。もし、揚げパンの考案者を知っていたら、ぜひ本誌に知らせてほしい。

 この本をたまたま読んだのが、元小学校教師のMさん(当時66歳)でした。Mさんは、学校の調理師をしていた父が『美味しいものが出来た』といって、揚げパンを持って帰ってきた日のことを思い出します。
 Mさんは事実を確かめるために、当時お父さんと一緒に給食の仕事をしていた養護教諭の家を訪ねます(※2)。本人は高齢で語ることはできなかったのですが、娘さん(Iさん、当時56歳)から「揚げパンを考えたのはあなたのお父さんですよ、私、見てましたから」と言われます。それは次のような経緯でした。
 昭和27年、大田区嶺町小学校、この冬は、流行性の風邪によって欠席者が次々出て、給食が多量に余っていました。昔は余った給食を、よく近所の子が放課後持っていったものです。
 ただ、この頃のコッペパンは時間がたつと固くパサパサになり、美味しく食べられるものではありませんでした。そこで、この日は、養護教諭や調理師が給食室に集まって、コッペパンを少しでも美味しくできないかと考えていたそうです。
 その時、一人の調理師が「揚げてみようか……」と言い出します。パンは、次々と揚げられ、砂糖がまぶされ、わら半紙に包まれていきました。Iさんは、当時、この小学校の3年生、養護教諭のお母さんと一緒に、この場面に居合わせていたのです。
 この調理師がMさんのお父さんです。Mさんは、お父さんが揚げパンを持って帰ってきた日のことと、Iさんから聞いた話などを手紙にまとめ、出版社に送ります(※3)。その後、栄養士会の調査も行われ、揚げパンは東京大田区嶺町小学校で生まれたことが確定されます。
 番組では、風邪が癒えて学校に登校できるようになった子どもたちが「おいしいパンを食べた」と友達に言ったこと、それが評判になって学校中に、そして全国へと広がっていったことを、温かいエピソードとして紹介していました。

「揚げパン」と図画工作

 この「揚げパン」がなぜ図画工作の「ひらめき」の話になるのでしょう。それは以下のような理由からです。
 まず「揚げパン」の「ひらめき」は、いくつもの資源が絡んだ状況的で共同的な出来事です。当時、食べ物はまだ貴重で、休んだ子に友達が給食を届けることのできる時代でした。この日は、風邪で大勢の子どもたちが休み、残菜となったパンが山ほどありました。それをなんとか美味しくしようと、調理師や養護教諭などが頭を突き合わせて、給食室で考え合ったのです。それは、何ら特殊な出来事ではなく、目の前の問題を解決するために、日々いたるところで、繰り返されている当たり前の行為でしょう。
 次に「揚げパン」は全国を席巻しますが、それは「揚げパン」が「大発明」だったからではありません。Mさんのお父さんは元西洋料理のコックでした。おそらく、乾燥したものを油で揚げれば甘くしっとりとなることを知っていたでしょう。ピロシキやドーナツなど、パンやパン生地を揚げる食物もすでにありました。パンを揚げること自体が市中で行われていた可能性もあります。揚げパンを「独創的な発明」とすることはできません。
 しかし、この頃は給食がようやく全国に広がった時期(※4)、食材の調達もままならぬ時代です。給食メニューに幅はありませんでした。その頃に、甘い「揚げパン」は、子どもたちにとって格別だったようです。また「揚げパン」は残菜率も低く、栄養士さんにとっても都合の良いメニューでした(※5)
 結果的に「揚げパン」は全国に広がりますが、給食という限定的な状況で、いわば後から、有名になったわけで、その考案の瞬間から「大発明」だったというわけではないのです。
 このエピソードは「揚げパン」の向こう側に、無数の日常的な「ひらめき」があることを意味します。「揚げパン」ほど広く認められはしなかったけれども、「美味しいものを食べさせたい」という素朴な思いと、少しでも良いものを提供しようとして生まれる「ひらめき」は、今も、全国の給食室で起こり続けているはずです。給食室は「ひらめき」の最前線なのです。
 図画工作の時間も、同じようにとらえることができると思います。後に、何かが特別な「ひらめき」になったり、あるいは、誰かが世間に役立つアイデアを思いついたりするかもしれません。でも、今、起きているのは「楽しいものをつくりたい」という素朴な思いと、複数の資源をもとに問題を解決しようとする共同的な出来事です。
 筆者には、給食室の「美味しいものを食べさせたい → パンを揚げてみようか… → 美味しいものが出来た!」は、図工室の「面白い絵を描きたい → 絵の具を混ぜてみようか… → いい色になった!」と、同じように思えます。そうだとすれば、給食室と同じように図工室も無数の「ひらめき」に満ち溢れた現場だとはいえないでしょうか。

 私たちの前には「ひらめき」が日々生まれている図工室があります。今日も、図工室で「いいこと考えた!」という子どもの声が聞こえているはずです。それは、実にありふれた風景です。でも、それこそが、かけがえのないことだろうと思います。
 図画工作や美術では、個人的な創造性を強調したり、独創的な「ひらめき」を賞賛したりすることが行われがちです。しかし、それ以前に、図工室や美術室が、そして、私たちのいる場所そのものが、名もない無数の「ひらめき」に満ち溢れているのです。
 あのアインシュタインの「ひらめき」だって、私たちの無数の「ひらめき」と無関係ではなく、世界の中で連続して存在しているはずです。何より、無数の「ひらめき」を大切にすることは、すなわち、私たち自身の存在を大切にすることに他なりません(※6)
 そんなことを「チコちゃんに叱られた」が教えてくれたような気がするのです。
 「ボーッと生きてんじゃねえよ~!」。はい、頑張ります(^^;)。

※1:アスペクト編集部・編「なつかしの給食 献立表」アスペクト(1998)
※2:元小学校教師でもあったMさんは、養護教諭が給食と深くかかわっていること(献立チェックや給食委員会担当など)を知っていたのでしょう。
※3:番組資料によると1999年12月です。
※4:ようやく全国的に給食を実施することが可能となった時代です。まだ、学校給食法も成立していません(昭和29年公布)。
※5:昭和50年代に行われた調査では、普通の食パンやコッペパンに比べると揚げパンの残食率は約半分まで下がります(前掲書46p)。
※6:本稿は横浜国立大学有元典文先生や、和光大学阿部慶賀先生とのメールのやり取りから生まれています。