学び!と美術

学び!と美術

「造形遊び」への想い~第3回:造形遊びという縁起
2021.11.10
学び!と美術 <Vol.111>
「造形遊び」への想い~第3回:造形遊びという縁起
奥村 高明(おくむら・たかあき)

 造形遊びは、友だちや先生、材料や用具、場所など様々な資源によって成り立ちます。そのため教師の手立てとして「造形遊びでは『資源』を広くとらえる必要があります」「生態系のような視点で、材料や場所などの『資源』を準備することが大事です」と言ってきました。でも、その説明だけではちょっと危険だと思います。本稿では、そのことについてお話します。

「立てて、立てて…」

 写真は、以前実施した中学年の造形遊び「立てて、立てて…」の一場面です(※1)。「低学年では『並べる』だから、中学年なら『立てる』だよね」という感じで計画した題材でした。
 例によって、立てる材料も、立てる場所も「自分たちで考えてね~」という乱暴な導入でしたが、子どもたちは、自分たちなりに問題を解決していきます。教師は安全性や妥当性を見守りながら、「すごいね~」「こんな風になったんだ!」と認め、励ましていくという仕事に専念します。
 結果として、子どもたちは、園芸用の支柱を排水溝の蓋に突っ込んだり(写真1)、校庭の樹木にパイプを立てたり(写真2)、孔雀の羽を発泡セメントに立たせて通路に並べたり(写真3)様々な活動を行いました。

写真1写真2写真3

 中には、ペンや消しゴムなどを天井からぶら下げる子どもたちもいました(写真4)。
 「立ててって言ったじゃない」
 そう突っ込むと、
 「先生、逆立ちしてごらん」
と言い返されました。確かに、逆さから見れば、天井からいろんな材料が立っています(写真5)。う~ん、やられた…。

写真4写真5

資源を揃えても造形遊びにはならない

写真6 この造形遊びの資源には何があるでしょう。園芸用の支柱や紙パイプ、文房具などの材料(写真6)、校舎裏の土置き場、通路、庭の樹木、天井などの場所、さらには一緒に活動する友だち、この学習を計画した教師と学習指導案など様々です。
 では、同じ資源を揃えれば、同じような造形遊びになるのでしょうか?「そうじゃない」というのが現場的な実感です。
 まず、資源が同じなら、同じ学習になるという保証はどこにもありません。同じ先生、同じ単元や題材なのに「昨年はうまくいったけど、今年はダメだった」ということはよくありますし、その逆も起こります。「授業は生もの」「学習は生き物」という言い方もするほどです。学習は、何か資源が一つ欠けたり、タイミングが異なったりするだけで大きく変化するのです。
 また、「造形遊びの資源を揃えたら、造形遊びになる」という言い方も、同じ言葉を繰り返しているようで、何か妙です。
 「でも、学習指導案はそうやって書くんじゃないの?」
 ええ、指導案は「このような資源を並べる」ので「このような学習になる」という風に、目標と結果が一致するように記述します。授業を進める資源としては欠かせないものです。ただ、あくまで「計画表」であり、その通りに進める「きまり」ではありません。以前、本連載(※2)で紹介した阿部慶賀先生(2021)は、「これとこれが満たされれば創造的ですよ」のような言い方は「禅問答のようなもの」だと指摘しています(※3)。指導案がお約束的な同義語反復であることには留意した方がよいでしょう。
 それに、指導案だけで実践が完全にコントロールできるわけではありません。「指導案に書いたように学習が進まなかった」とがっかりすることは日常茶飯事で、誰もが経験していることだと思います。教師が資源を揃えただけで造形遊びが成立するというのは少々都合のよい話だと思います。

造形遊びは「因果」よりも「縁起」

 ではどのように取り組めばよいのでしょうか。
 横浜国立大学の有元典文先生(2021)は、教育は「因果」だけでなく「縁起」という視点が大切だと指摘しています。「因果」とは、原因と結果を意味する言葉で、「種を植えたら、花が咲く」「知識技能を学べば、活用できる」のような話です。全くその通りなのですが、物事はそう単純ではありません。

数多くある種のひとつが、たまたま日当たりの良い場所に運ばれて、天候に恵まれ、雨に流されず、鳥についばまれず、人に踏まれず、土壌からの水分と栄養をたっぷり得たので、今ここに花は咲き、育っている(有元2022)(※4)

 種から花という「因果」が成立するためには、様々な出会いや出来事という縁の連鎖、つまり「縁起」が必要です。「資源を揃えたら、造形遊びができる」という言い方は、まさに因果的な言い方であり、そこに欠けているのは「縁起」なのです。
 造形遊びでは、この「縁起」の在りようを子どもたち自身が見事に見せてくれます。「立てて、立てて…」のAさんを追ってみましょう。
 まず、Aさんは、軍手に木を差し込んだら「立つ!」ということを思い付きます(写真7)。「先生~」と持ってきたので、「それいいね~!どこに立てる?」と言うと、Aさんは、校舎裏の土置き場に立てました(写真8)。おそらく土砂なので立てやすかったのでしょう。ブロックに合わせて横に一列、入口の部分に合わせて2本と、土置き場の形に合わせて構成されています。

写真7写真8

 Aさんは、しばらくそれを見つめていたのですが(写真9)、次に枯れたプランターに立て始めます(写真10)。ここも土ですし、枯れた植物の並び立つ形に誘われたのかもしれません。

写真9写真10

 さらに、何を思ったのか、正面玄関に場所を移して、花がきれいに咲いている植木鉢に、ひとつひとつ立てていきました(写真11)。
 「やばい…研究公開日のために並べた花が…」
 教師は少々焦ります。ただ、よく見ると花の色とゴム手袋の色が重なっています。A子さんは、活動のどこかで、手袋を花だという発想に切り替えたのでしょう。
 そして、最後は、前庭の植木に「手袋の花」を咲かせてくれました(写真12)。

写真11写真12

 「えっ、それは、さすがに…」
 教師は関係各所のお詫びに追われた次第です。用務員さんごめんなさい。
 でも、「手袋の花」の後ろで、同じポーズをとるA子さんの表情は、今も忘れられません。それは、縁の連鎖が結実した喜びでしょう。材料と場所などの資源という「因」だけでなく、様々な出来事や資源同士が関わり合う「縁起」を経て、はじめてA子さんは「果」という実(み)を味わったのだろうと思います。
 有元先生(2021)は、前述に続けます。

種があるから芽が出るという因果律はその通りだが、因果が成立するには非常に多くの要素が関わっている。教育は因果律だけで計画するものではない。学んだことがより良い出会いのご縁の中で花ひらくように、因果律だけでなくいわば縁起律にしたがって進めるものだろう(※5)

 この指摘は、造形遊びに取り組む教師であれば、実感的に分かることだと思います。造形遊びにおいて、教師は子どもたちの学習過程を想像しながら、多様な資源に目を配りつつ、指導計画を作成します。でも、いざ授業が始まったらその子の「縁」に注目しながら、子どもの状況をその都度判断し、臨機応変に材料を提案したり、活動を支援したりします。教師が授業中に実際に行っているのは「縁起律」なのです。
 たぶん「資源」という言い方がよくないのでしょう。それは造形遊びが資源だけで成り立っているような誤解を生むように思います。実際は、資源を配置するだけではなく、見守ったり、手助けしたり、時にはダメ出しをしたり、縁がよりふくらむように子どもたちの造形活動を支えているのが教師です。それは、造形遊びだけでなく、図画工作、さらには学校教育全体を支えている姿だと思います。

※1:奥村高明 宮崎大学教育文化学部附属小学校 研究公開授業より(1999.1)
※2:奥村高明「学び!と美術 <Vol.103> 「ひらめき」が生まれる授業」
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art103/
※3:阿部慶賀 第1章座談会「禅問答みたいな話になっちゃいますが、「創造性ってこうです」って定義した瞬間に、創造的じゃなくなってしまいますね。例えば「これとこれが満たされれば創造的ですよ」っていうと、筋道が決まっちゃうわけです。すると「創造性のための方略」や「創造性のマニュアル」ができてしまいます。でも、それはおかしなことでしょう。」奥村⾼明、有本典文、阿部慶賀編著『ひらめきがうまれる授業』日本文教出版(2022)【近刊】
※4:有元典文 第3章「ひらめく場づくりとしての教室」前掲註3
※5:前掲註4