学び!と歴史

学び!と歴史

古代、掟に縛られた政争劇
2010.07.21
学び!と歴史 <Vol.39>
古代、掟に縛られた政争劇
皇位継承が語る闇
大濱 徹也(おおはま・てつや)

「日本」であるという国のかたち

 「日本」が日本であるのは何かとの問いは、幕末の19世紀日本が欧米諸国の外冦(がいこう・国外から敵が攻めてくること)に対峙していく精神的拠り所として、日本の国のかたちを「万世一系の皇統」に求める想いをうながします。この想いは、平田篤胤(あつたね)没後の門人である山中八幡宮(現愛知県岡崎市)社司竹尾正胤に、『大帝国論』を書かせました。その冒頭を「凡斯一地球の中にて、西夷等が帝国と称する国六あり」と書きはじめ、「西夷」であるヨーロッパが帝国と呼ぶのはアジアでは皇国(日本)と支那、ヨーロッパではドイツ・トルコ・ロシア・フランスの六国。その他は王制の国もあれば共和政治の国もあり、イギリスが「万国に縦横して、兵威甚だ盛なり」といわれる中、いまだに帝号を名乗らない程度の国にすぎず、他はたかが知れたものとします。この六国のなかで唯一正統な帝国は独り、わが大皇国日本のみが全世界に確固たる大帝爵国であり、支那・ドイツ・トルコ・ロシア・フランスは勝手に帝国を名乗る偽帝国だとみなします。日本のみが正統な帝国であるのは、王位纂奪(さんだつ)の歴史がない、日本だけが万世一系の皇統の国であるからだと誇ります。
 この「万世一系」の天皇の国という言説は、日本の歴史を呪縛し、「国史」の枠組みを規定しております。この「国史」的な日本の歴史を問い質すためにも、「皇統の国」という神話を支えてきた皇位継承の論理と実態がもたらした歴史の闇に目を向けたいものです。そこで平城の盛儀をもたらした第45代聖武天皇を誕生させた世界をうかがうこととします。

「不改常典」という掟

 第38代天智天皇は、子である大友皇子の即位を実現すべく、皇位継承法を定めます。その法は、707年(慶雲4)元明天皇が即位の詔で

「天地と共に長く、日月と共に遠く、改(かわ)るまじき常の典(のり)と立て賜い、敷賜える法」

 と述べた、皇位継承の大典、「不改常典(ふかいじょうてん)」といわれるものです。天智天皇が申し渡したという皇位継承の約束である「不改常典」は、天智の子である大友皇子を壬申の乱で亡ぼし、皇位を奪った天武-持統の皇統を守護するために不磨の大典とされたのです。
 第41代持統天皇は、嫡子である皇太子草壁が亡くなったので、孫である草壁の子軽皇子(第42代文武天皇)を15歳で即位させ、上皇として後見します。文武の後継である嫡子首(おびと)は、「年齒幼稚」で即位できないため、草壁の皇后が第43代元明天皇、ついで草壁の娘である氷高内親王が第44第元正天皇となります。
 天皇の即位は、冒頭に「詔して曰く」とし、

「現御神と大八嶋国知らしめす天皇が大命らまと詔りたまう大命を、集り侍る皇子等・王等・百官人等、天下公民諸聞きたまへと詔る」(第42代文武天皇)

「現神と八洲御宇倭根子(やまとねこ)天皇が」(第43代元明天皇)

「現神と大八洲知らしめす倭根子天皇が」(第45代聖武天皇)

「現神と御宇倭根子天皇が御命らと宣りたまう御命を、衆聞きたまへと宣る」(第46代孝謙天皇)

 等々が述べていますように、「現(御)神」である現人神たる天皇の言葉を伝えることで、天皇位の継承がなされていきます。
 聖武天皇の即位は、首皇子として、天武-持統-草壁の皇統を一身に担う帝王として期待されていました。首皇子は、即位の詔で

「元正天皇は、この天下は父である文武天皇から私に賜ったもので、私が年齒幼稚、年齢が若く、重責に耐えられないので元明天皇に譲位され、それを元明は娘の元正に譲位したが、その時に改るまじき常の典(不改常典)にもとづき必ず私に皇位を伝えるようにと仰られた。いまここに元正天皇から譲りを承て即位する」

 と、宣言します。いわば文武後の二代の女帝は、首皇子が天皇位につくまでの中継ぎの女帝として、天武の皇統を不磨の大典として守護したわけです。
 こうした処置は、天皇になるには一定の年齢、少なくとも30歳以上との不文律があったことによります。たしかに父の文武は15歳で即位しましたが、この即位は異例なことでした。ここには、祖母の持統が上皇として文武との共治体制をとることで、天武・持統の王統を守護しようとしたのです。それだけに聖武天皇の誕生は待ちに待った盛典であり、その治世が期待されました。いわば「不改常典」は、文武の嫡子首を即位させるために活用され、男系嫡子相承の論理として強調されております。

聖武の王統

学び!と歴史Vol.38

皇室系譜(一部)

 ここに聖武は、「不改常典」に託された責務をはたすべく、王朝の盛儀の実現に努め、血脈の継承をめざします。聖武と光明子との間には、阿部内親王(後の孝謙天皇)、次いで基王が誕生しました。基王は生後33日に早々と皇太子となり、嫡子継承の道が天下に示されます。しかし皇太子基王が誕生日を迎えることなく亡くなったことで、聖武は皇位継承者に苦慮します。嫡系相承を旨とする聖武は、唯一の皇子安積(あさか)でなく、女子であっても嫡系であり年上の阿部を女性の皇太子とします。こうして天武-持統-草壁-文武-聖武という天武の王権は、聖武天皇が「不改常典」を己の嫡孫継承という血の論理をさらに強く強調することで、聖武王権へと収斂(しゅうれん・ひとつにまとまること)していくことになりました。いわば「不改常典」という掟は、時の王朝の想いによって運用され、皇位継承の正統性を競うことで、政争の渦を拡散していく要因ともなったのです。
 第48代称徳天皇(第46代孝謙天皇)は、死の床で聖武天皇の第一皇女で、県犬養宿禰刀自(あがたいぬかいのすくねとじ)が母である井上内親王を妻とする白壁王を皇位継承者となし、第49代光仁天皇の即位となりました。光仁は、天智系ですが、井上によって聖武の血脈につながるとみなされたのです。そのため光仁天皇の即位では、

「詔して曰く、天皇が詔旨らまと勅りたまう命を、親王・諸王・諸臣・百官人等、天下公民衆聞きたまへと宣る」

 と、「現(御)神」の文言がありません。このことは、光仁が天武-持統-草壁につらなる聖武天皇系でない、聖武の血を継承しない天智天皇系であったことによりましょう。ちなみにこの書式は、中事・小事に関する詔勅の形式であり、左右大臣以上の任官や五位以上の叙任などに用いられたものです。
 井上内親王は皇后となり、その子他戸(おさべ)親王が立太子されました。ここには、県犬養氏の存在を媒介として、聖武天皇の血筋を皇統にしていくとの強い想いがみられます。この想いは、773年(宝亀4)3月に井上皇后が光仁に代わり、聖武に連なる他戸皇太子の即位を望み巫女に天皇を呪い殺す祈祷をさせた(巫蠱大逆・ふこたいぎゃく)として皇后の位を剝奪され、5月に他戸親王も廃太子となり、挫折します。この謀略は、光仁の第一皇子山部親王を皇太子にし、聖武王朝に距離をとろうとの勢力によるものです。こうして山部親王は翌774年1月に皇太子となります。

桓武天皇の想い

 山部は、母を百済の武寧王を祖とする和氏(やまとうじ)出身の帰化系氏族である身分の低い高野新笠が生母でした。781年(天応元)に即位(第50代桓武天皇)したものの、桓武は氷上川継(ひかみのかわつぐ)ら天武系から皇統の正統性を否定されます。ここに桓武は、聖武天皇との擬制的関係を否定し、己の皇統を天智天皇に連なるものとなし、天武-持統-草壁-聖武という天武系を否定し、新たなる皇統への道を歩むこととなります。
 こうして桓武は、聖武陵をはじめ天武系後胤の山陵に奉幣することもなく、聖武没後51年後の807年(大同2)に聖武天皇を国忌(薨去した日を国家の忌日として政務を休み、追善供養を行う)からはずします。まさに平安王朝は平城の盛儀を担った聖武天皇の存在そのものを疎ましくみなしていたのです。なお、2001年(平成13年)の天皇誕生日前の記者会見で、天皇が桓武天皇にふれた発言が「皇室百済起源論」として、韓国で話題となりました。いわば万世一系の皇統なる歴史は、「不改常典」なる幻想に踊らされ、魑魅魍魎(ちみもうりょう・さまざまな妖怪変化)が跋扈(ばっこ・のさばり、はびこること)した闇を見つめることなき世界の産物ではないでしょうか。