学び!と歴史

学び!と歴史

大久保利通の東北開発構想
2011.09.02
学び!と歴史 <Vol.50>
大久保利通の東北開発構想
日本列島改造計画をこえていた!!
大濱 徹也(おおはま・てつや)

東北日本への目

国立国会図書館蔵

大久保利通<国立国会図書館蔵>

 大久保利通は、富国開明を目指す明治新政府のなかで、傑出した存在でした。大久保は、維新敗残の東北を「海内一家東西同視」という場から、東北振興策を提示し、東北日本の富を新国家の富とする構想の実現に取り組みます。その構想は、1970年代初頭に日本列島改造計画を提起した田中角栄の世界をこえるものでした。
 「鬼県令」として「悪名」のたかい三島通庸は、東北日本の富をいかに活用するかとの大久保の意向を受け、その東北開発構想を具体化すべく、山形から福島を通って栃木に入る東北縦断道路の開発をはかり、山形を起点に福島から那須につなげ、那須野原の開拓を推進しました。そのために三島は、山県・福島・栃木の三県令を兼務し、在地の利益を代弁する民権派を弾圧したがために、歴史に悪評をのこし、いまだにその国家構想が十分に評価されていません。その富国開明への目は、大久保の東北開発構想とともに、現在あらためて検証されるべきものといえましょう。

大久保利通の東北開発計画

 大久保は東北開発のために7大計画を提起しております。

  1. 北上川を改修して野蒜(宮城県)に築港すること。
  2. 新潟港の改修。
  3. 越後・上野間の道路開削(これが現在の清水トンネルを生む)。
  4. 大谷川運河を開削し、那珂湊(茨城県)に通ずること。
  5. 阿武隈川を改修して白河・福島を海につなげ、野蒜港との一体的運用をはかり、福島地方の振興を実現すること。
  6. 阿賀野川、特に新潟県下の阿賀野川を改修して新潟につなげ、会津地方の振興をはかること。
  7. 印旛沼より東京への通路を開くこと。

 この壮大な構想は、野蒜築港計画の挫折に象徴されますように、画餅に帰します。しかし敗残の汚名に泣く東北では、野蒜築港に故郷の明日をかけようとした宮城県登米地方の人々のように、地域振興への期待大なるものがありました。
 宮城県登米郡は、敗残の身を開港場箱館にさらし、ロシア領事館付き司祭ニコライと出会い、ハリストス正教の伝教師として再生した旧伊達藩士の宣教活動でロシアの国教であるハリストスの拠点となっていました。その一つ佐沼顕栄教会は、半田卯内が設立に力を尽し、町の有力者の大半が教会員となり、ハリストスの町を形成していきます。半田は、町を豊かにすべく、主だった人物によびかけて産業結社広通社を結成、東北の米をはじめとする物産を東京に移出すべく野蒜築港の予定地である海岸に倉庫を建て、登米からの富村富国を構想し、その実現に家産を投じたのです。しかし、明治十四年の松方デフレは、計画を水泡に帰し、佐沼町とその近隣の「有産階級の約三分の二は倒産の憂目を見るの悲惨」(『半田卯内翁小伝』)な境遇におとされました。夢破れた半田は、膨大な借財をかかえ、学校の先生として後半生を生きていきます。この挫折こそは、自力による地域振興への夢に怯え、いまだに国家プロジェクトへの過剰な期待をよせるトラウマかもしれません。

東北三大プロジェクト

 明治の東北には、青森県の三本木開拓、福島県の安積開拓、栃木県の那須野開拓の三大プロジェクトがありました。
 十和田湖の水を疏水とする三本木の開拓は、新渡戸稲造の祖父、新渡戸伝が中心になって行われました。新渡戸伝は南部藩の人で、六十歳のときに開拓に入り、近江商人などの力を借りながら七十九歳まで開墾に従事します。厳しい状況のなかで新渡戸家は貧窮し、そのため稲造は奨学金を得て官費で学べる札幌農学校に行きました。現十和田市には新渡戸記念館があり、傍らの新渡戸神社には稲造も祀られています。
 安積開拓は、旧米沢藩士で福島県典事中條政恒の指導で実現したものです。中条は、安積開拓に各地から集まった人びとの心をまとめるために開成山に遥拝所を設立し、神武天皇祭(4月3日)・天長節(11月3日)に入植者のみならず、近隣の村々の者をも参拝させ、「郡中人民協同一致」をはかろうとします。開成山大神宮の遥拝では「神武天皇祭と天長節のときには村人たちはみな、ここに集まれ。花を持って集まって、花を植えろ。そのときだけは、踏歌(歌を歌ったり踊ったり)し、何をしても自由だ。みな楽しめ」と説かれたのです。このような作法は、「国祖」たる神武天皇、「国帝」たる天皇を知らない「無知無識」な「東奥の民」に「国家」を国家たらしめている存在の何んたるかを教え、「国民」たる自覚をうながそうとした営みにほかなりません。
 この遥拝所が現在「東北のお伊勢様」と喧伝されている開成山大神宮となります。開成山大神宮は、「郡中人民」の社と位置づけられましたが、各地からの入植者はそれぞれの郷里の神様を持ってきています。たとえば鳥取からの入植者は鳥取の宇倍神社、高知の開墾者は八坂神社、棚倉藩の棚倉士族は三柱神社という具合です。それぞれの神様の頂点に開成山大神宮があり、国家神である伊勢神宮につながる精神世界を造形していくことで、東北の「貧民流民愚夫婦」を国家の民に編成していったのです。まさに遥拝所―開成山大神宮―伊勢神宮へとつらなる精神結集の場にほかなりません。
 この開拓地に生きた人びとの姿は、安積開拓の祖たる中條政恒の家で過ごした孫娘中条百合子(宮本百合子)が小説『貧しき人々の群』で描いています。そこには、少女時代の体験をとおし、安積開拓の相貌が読みとれます。
 那須野開拓の特色は、三島通庸の要請を受け、大山巌、松方正義、青木周蔵らの薩摩・長州出身の華族らの農場として開かれたことです。三島農場と別邸があり、開拓の相貌を画家高橋由一の描いた世界にうかがえます。ありし日の名残は、松方農場が現在のホウライ(株)の千本松牧場に、大山農場の大山家墓所、洋風建設の青木周蔵邸等々に現在も忍ぶことができます。

「三島ごばんの目」紹介ページico_link


参考文献

  • 大濱徹也『天皇と日本の近代』同成社 2010年
  • 大濱徹也「大地の祈り」(『年報 新人文学』第4号)北海学園大学大学院文学研究科 2007年