学び!と歴史

学び!と歴史

悲愁-大和十津川郷から北海道の新十津川へ
2011.11.08
学び!と歴史 <Vol.51>
悲愁-大和十津川郷から北海道の新十津川へ
大濱 徹也(おおはま・てつや)

明治22年の山津波

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 日本は、東北太平洋沿岸の津波に次いで、集中豪雨による奈良県十津川の孤立等々、自然の猛威にさらされています。自然の怒りは、日本のみならず世界各地にみられることで、自然を収奪し破壊することで文明を謳歌してきた人間の営みに対する裁きともいえましょう。
 このような災害や凶荒で生きる場を失った人々は、新たな生きる場をもとめ、新天地に移住し、厳しい自然と向き合うことで新しい世界を切り開いております。北海道の大地にはそのような移住者の手になる世界がみられます。北海道樺戸郡新十津川町は、十津川村を母村とし、今回の災害にいち早く村の職員を派遣し、救援活動にあたりました。
 新十津川は、明治22年8月18日未明から20日にかけての未曾有の風雨で山崩れ、山津波に襲われた大和十津川郷の人々が集団移住をして築いた町です。その様は、東京にいる郷土の出身者に救援を求めた次の一文にうかがえます。

雨最も甚だしく、加ふるに電閃雷吼山崩川漲人民或は埋没、或は流亡し老幼は屋上に在りつつ狂浪に捲去れて暗中頻に救援を呼ぶあり。(略)
二十日雨晴るるも河腹尤も肥満し或は後山避けて前山を圧倒し為めに河脈を変ずる処あり。十津川沿岸の聚落毫も旧観を存する所なきに至れり。

 その被害は、十津川郷六か村の戸数2403戸、人口1万2862人、田235町5反、畑596町2反であったが、死者168人、負傷者20人、全壊・流失家屋426戸、半壊家屋148戸、耕地の埋没流失226町8反にのぼり、水田の50パーセント、畑の20パーセントが流亡しました。山林の被害も甚大でした。ここに十津川郷の住民3000人が郷里で生活を再建することが困難な事態となったのです。

北海道移住-新十津川物語の世界

 十津川郷は、太平記が「鳥も通わぬ十津川の里」と記したように、高野山の麓、吉野の奥にある山岳重畳の僻地にあり、南北朝の争乱で護良親王を擁し、南朝後醍醐天皇のために戦った「南朝遺臣」の里たる自負をもって生きてきた村で、勅免地として租税が免除されており、京都での禁裏警備を任としていました。そのため十津川郷士は、明治維新においては尊皇攘夷をかかげ討幕の先駆けたらんと、天誅組に加担し、大和の五条代官所、高取城の攻撃などに参加しました。
 この尊皇愛国の念は、ロシアに対する北方防備の任たる「北門の鎖鑰」を担う者に相応しいとみなされ、永山武四郎北海道庁長官の勧めを受け、北海道に新十津川の創立をうながします。600戸、2489人(移住願は2691人)の移住民は、3回にわかれて郷里を出発し、明治22年10月末から11月初めにかけて順次小樽港に入港、滝川の屯田兵屋で越冬し、滝川で屯田兵に応募した95戸を残し、537戸2230人が23年6月に徳富川流域のトック原野に入地しました。7月には第2次移住者として40戸172人がソッチに入植します。ここにいたるまでの道程は、22年11月から翌23年7月までに96名が死亡しているように、「大和に移住民空知の肥だよ」と囚人が橇引き音頭で歌ったほどに悲酸をきわめたものでした。
 この悲惨な開拓の日々を支えたのは、22年10月18日の第1回移民出発の日に明治天皇が就産資金を下賜するとの特旨を知らされ、「南朝遺臣」につらなる「恩賜の村」たる思いでした。その思いは新しい村づくりにむけた移民誓約書に読みとることができます。

今般我々人民北海道へ移住するもの僅々六百戸に対し、政府より保護を受くるの金額実に十七万五千七百余円の巨額に上ほり、殊に我郷民北海道へ移住の事 聖聴に達するや特旨を以て就産資金若干円を下賜せらる、実に感泣に堪へさるなり、 聖恩の優渥なる政府保護の深厚なる我郷未た曾てあらさるなり、 聖恩斯の如く優渥政府の保護斯の如く深厚なる所以のもの抑も何等に依りて然るか、是固より地方官の具状と要路顕官諸賢の翼賛に依ると雖も又我祖先先輩の遺徳余光にあらずして何そや、即ち我十津川郷民は忠君愛国の情に富み勇敢忍耐の徳を備へ其名声夙に世評に籍々たるを以て証するに足る(略)
若し万一我移住民か因循姑息に流れ、保護の旨趣に違ふ事ありては上政府に対し下我々先祖先輩の遺徳に対し何の面目あつて世に立つへけんや

 入植五年目の明治27年には、移民自作の馬鈴薯を天皇に献上し、黒田清隆、松方正義、三条実美、山県有朋、西郷従道、谷干城らの政府要人にも贈り、移住における手厚い配慮への謝意を表します。「南朝遺臣」につらなる「忠君愛国」の念こそは、北の大地で生きる者の心を支え、新十津川を実現せしめたものにほかなりません。
 この新十津川誕生をめぐる記憶の根は、十津川町の開拓記念館に忠臣楠木正成の家紋である菊水の旗指物を展示し、菊水公園を造成しているなかもうかがえます。「故郷の残夢」なる詩は、十津川を旅立ってからの道程を詠ったもので、「夢な忘れそわらはべよ 家を富すも君の為め 家を富まして大君の 深きめぐみに報はなん 夢な忘れそわらはべよ 村を富すも君の為め 村を富して大君の 深き恵みに報はなん」とむすび、「恩賜の村」なる誉れに生きんとの思いを吐露しております。まさに困苦に生きねばならなかった移住者は、大君の恩愛にすがることで、己の生きている場を確認したのです。
 ここに生きた人びとの苦闘は、両親を失い、姉とも別れた9歳の少女津田フキの生涯に重ねて描いた川村たはし『新十津川物語』全10巻(偕成社 昭和53-63年)に読みとれます。この物語は、NHKの大河ドラマで放映され、町の新十津川物語記念館で追体験することができます。

災害を受けとめて

 北海道は、十津川のみならず、多くの被災地からの移住者によって開拓されてきました。上川郡愛別村には、明治28年に連年の水害と震災から逃れて岐阜団体55戸、明治24年の濃尾大震災の被災者からなる愛知団体が入植。41・2年には、山梨県下の水害罹災者400戸が倶知安村と弁辺村(現豊浦町)に入りました。まさに北の大地北海道は、日露戦争後の東北凶荒、大正12年の関東大震災、米軍の都市爆撃による被災者等々、災害と戦災で生活の場を破壊された者の逃れ場でした。国家は、暮らしの拠点を奪われた人びとを北の大地に送りこむことで、開拓の捨石としたのです。このような国家の施策は現在も続いております。
 まさに新十津川誕生の物語は、「恩賜」という光被で語られているものの、「空知の肥」と囃されたように、北の大地にたどり着いた流亡の民が眼にした世界と変わりがありませんでした。それだけに「恩賜」という幻影に酔わねばならなかったのです。

「新十津川町開拓記念館」紹介ページico_link
「新十津川物語記念館」紹介ページico_link
※共に北海道新十津川町ホームページ内


参考文献

  • 『移住九十周年の回想』(新十津川望郷会東京支部 昭和55年)
  • 『新十津川百年史』(新十津川町 平成3年)