学び!と歴史

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大日本帝国憲法にこめられた思い ―「皇国」日本という幻想(2)―
2017.12.27
学び!と歴史 <Vol.118>
大日本帝国憲法にこめられた思い ―「皇国」日本という幻想(2)―
大濱 徹也(おおはま・てつや)

承前

 大日本帝国憲法は、1889年(明治22)2月11日、紀元節の「佳節」に発布されました。この日、王位継承の根本法典である皇室典範が制定されました。天皇皇后は、すでに1月11日に赤坂仮皇居より造営された新皇居である宮城に移っておりました。ちなみに「宮城」なる呼称は、1888年に天皇が住む「新皇居」を「宮城」と称すと告示したことによります。この「宮城」なる呼称は、1948年7月1日に「皇居」を「宮城」とした告示が廃止されたことで、「皇居」となりました。
 この一事には、ヨーロッパの王室制度を範にして天皇を統治の主体者とする制度としての皇室制度を設計するにあたり、西洋文明の仕組みに学ぶことで「天皇」という王権を位置づけようとした想いがうかがえます。まさに「皇居」なる呼称には、1945年の敗戦がもたらした衝撃をして、「天皇」という王権にこめられた特殊日本型の国家像たる「皇国」の神話に引き寄せることで、日本のnationality「国体」を誇示したいとの思惑がうかがえましょう。

統治者たる天皇が問いかけた世界

 天皇は、「告文」「勅諭」で、天壌無窮の皇統を継ぐ者として、「人文の発達」する時代の趨勢にしたがい、「皇祖の遺訓」を明らかにした「典憲」を定め、「内は以て子孫の卒由する所と為し、外は以て臣民翼賛の途を広め永遠に遵行せしめ」、大いなる帝王の下にある国家を強固にし、「八洲民生の慶福を増進」すべく、ここに皇室典範と憲法を制定したと、告げました。
 「憲法」発布は、「朕が祖宗に承くるの大権に依り現在及将来の臣民に対し、此の不磨の大典を宣布」すと。そこには、「我が臣民」が「祖宗の忠良なる臣民の子孫」であったことに想い致し、「朕が意を奉体し」て率先して従い行い、おたがいに「和哀協同」して「我が帝国の栄光」を「中外に宣揚し祖宗の遺業を永久に鞏固」にする望みを同じくし、この負担を分かちもつことを疑っていない。「国家統治の大権」は、「朕か之を祖宗に承けて之を子孫に伝ふる所」のもので、「朕及び朕か子孫は将来此の憲法の条章に循ひ之を行ふことを愆(あやま)らざるべし」と。
 朕は、「我が臣民の権利及財産の安全を貴重し及之を保護し此の憲法及法律の範囲内に於て其の享有を完全ならしむべきことを宣言す」と述べ、帝国議会を1890年に召集して議会を開会すると。かく天皇は、憲法発布がもつ意味を説き、各大臣が「朕が為に此の憲法を施行するの責に任ずべく、朕が現在及将来の臣民は此の憲法に対し永遠に従順の義務を負うふべし」と。かく語られた大日本帝国憲法にこめられた世界は制定者伊藤博文の意図を表明したものにほかなりません。

伊藤博文の思い

 憲法制定を主導した伊藤博文は、人心結合の器が仏教や神道に期待できないがため、「我國にあっては機軸とすべきは独り皇室あるのみ」と確信しました。まさに神の不在は、西洋諸国でキリスト教がはたした役割をして、「皇室」という存在に国家の根軸を託させることとなります。
 この「皇室あるのみ」との確信こそは、神が不在な日本において、天皇、万世一系の皇統につらなる天皇を神に代替しうる器とみなし、国民精神の拠り所に造形していくことだとの思いにほかなりません。この思いが結実した世界が大日本帝国憲法です。
 かくて伊藤博文は、憲法発布をふまえ、2月15日に枢密院議長官邸で府県会議長に対する憲法演説で、欽定憲法として発布された大日本帝国憲法にこめられた思いを懇切に説き語りました。そこでは、まず「憲法」が民との契約による「民約」ではなく、「欽定憲法」であることが強調されます。「欽定とは既に諸君の熟知せらるる如く、天子親ら定め玉うの辞にして、天子の特許して一国の臣民に賜与し玉うの義なり。故に此憲法は全く天皇陛下の仁恵に由り臣民に賜与し玉いしものなるを、恒に諸君の心に銘じて記憶せられんことを冀望す」と。まさに憲法は天皇の「仁恵」による賜物にほかなりません。この言説は、「我が日本国は、開闢の始より天皇親ら開き玉い、天皇親ら治しめすを以て、之を憲法の首条に載するは実に我が国体に適応するものと謂うべし。是れ他国の憲法と大に其構成体裁を同くせざる所以なり」と、日本開闢神話を「事実」とした王権の在り方を根拠としたものにほかなりません。
 かくて政府は、「天皇陛下の政府」であり、主権が天皇の玉体に集合し、天皇が任免した宰相が国政の責任を負う体制にほかならず、主権が人民にある共和国とは全く異なるものとなります。このことは、「主権は君主即ち王室に存し、未だ曾て主権の他に移りたるの事実なく、又移るべきの道理あらざるなり」という「開闢以来の歴史と事実」にもとづいたものであること。それ故、「仮令、議会を開き公議輿論の府と為すも、主權は唯だ君主の一身に存在することを遺忘すべからず。日本に於ては開闢依頼の国体に基き、上元首の位を保ち、決して主權の民衆に移らざることを希望して止まざるなり」と。この主旨をふまえ「苟くも帝国議会の議員たるものは、自己の選挙せられたる一部の臣民を代表するにあらずして、全国の臣民を代表し、敢て郷里の利害に跼蹐せずして、ひろく汎く全国の利害得失を洞察し、専ら自己の良心を以て判断するの覚悟なかるべからず」と、議員たるものの覚悟に説き及んでいます。
 ここには、「憲法政治」をかかげ、立憲君主制の定着をめざした伊藤の想いが読みとれます。まさに日本は、国民国家を造形すべく、西洋の立憲君主制の枠組を分節化して選別改変し選択的に受容する作法、機能合理主義的価値判断で「皇国」に相応し制度設計をすることで、日本型君主制ともいうべき「天皇制」を構築したのです。まさに「天皇制」は、日本の文明化と同時的に登場することで、その全容を整えていった制度体だといえましょう。そのための基本的枠組みは大日本帝国憲法と皇室典範にほかなりません。

 

参考文献

  • 滝井一博編『伊藤博文演説集』 講談社学術文庫 2011年
  • 坂本一登『伊藤博文と明治国家形成』 講談社学術文庫 2012年
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