学び!と歴史

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「西郷どん」とは何者か 6 ―「文明政府」に向ける眼差し―
2018.11.28
学び!と歴史 <Vol.129>
「西郷どん」とは何者か 6 ―「文明政府」に向ける眼差し―
大濱 徹也(おおはま・てつや)

「開化本」にみる世代間の確執

 御一新で誕生した新政府は、「開国和親」を掲げ、欧米諸国の統治制度に似せて国家の枠組みを創設していきます。その営みは、「文明開化」と喧伝されましたが、欧米列強が歴史を重ねて構築してきた諸制度を分節化し、機能合理主義的価値観判断で取捨選択して導入し、日本という鋳型に相応しい国家制度に改変していくことでした。この方策はあらゆる制度文物にわたる西洋文明の受容として展開されていきます。
 このような開化の風は社会全体に混乱困惑をもたらしました。その様相は、文明開化を体現する文明派の青年「開化文明」「西海英吉」「開次郎」らが、反開化派を旧弊固陋なる老人にみたてて命名された「遅川愚太夫」「旧平」などとの対論で「文明」の理を弁証し、「愚太夫」らの守旧派を嘲笑罵倒する、開化派の声が高らかに谺する「開化本」に読み取ることが出来ます。そこで神代種亮が田舎向きに新文明の理を戯作風に説いた『開化の入り口』(明治6、7年)のヒトコマを紹介し、民衆の開化に向ける眼差しにふれることとします。
 「母じゅん」は、息子文太郎が「開化文明」と改名して帰郷したことを、「イヨー是れは何ンじやまあアタ形(なり)の悪い、丸で西洋人の様な形をして、村の衆が見ても恥かし。あつたら髪をきりすてて其まあ情ない頭は何事ぞいノウ」「古郷へ錦をかざらいで、多くの人が畜生同様じやと下(さげ)しんで居る西洋人の真似は何事ぞ」と、泣きます。戸長となった父「愚太郎」は、西洋かぶれを戒めていたにもかかわらず、「畜生の様な形態(なり)をして実に外分かたがた世間へ顔もだされぬわい」と、涙ハラハラという始末。
 ここで横浜の町人を名乗る「文明」の友人「英吉」が文明政府の理を多弁に説き聞かせます。王政復古の政治とは、「王政復古の御政治とたち直つたから、久しぶりで一天万乗の天子様は民の父母と言ふことが行なはれた。さすれば上は御一人、下万民は皆其御子と同様で、穢多じやと言て尻尾が生てもなし、御年貢を上納すりや矢張天子の民で、御子も同様」なのだと、一君万民という「赤子平等」が説かれ、談は洋服の便、断髪の利、肉食の益、「血税」という徴兵の意味、さらに女子教育の必要なことなど、政府の開化政策を平易に語りかけたのです。
 まさに開化本は、政府の意を代弁し、文明に嫌悪反撥する「幼童愚昧」な民衆の啓蒙を課題としたものです。神官僧侶から戯作者・講釈師の類までを教導職に任命、「天皇の道」の実現をめざす「大教」を宣布する新政府の運動をささえるネタ本にほかなりません。

政府の「文明」とは

 かく説かれた「文明」の相貌は、強権的な政府の手で、外形的な構造物として、目に見える容で展開していきます。その負担は、民の怒りを呼び、反開化・反文明との気分を醸成していきました。かつ政府大官は、最先端の「文明」を体現する存在であり、その家屋敷から日常生活にいたるまで西洋文明の直輸入ともいえる生活スタイルでした。なかでも国家の顕官をはじめ貴顕紳士といわれた社会上流階級は、「西洋風」がそのステータスシンボルであり、日常の暮らしまで規定されていました。その一端は、東京都が管理する三菱財閥の岩崎邸の(岩崎邸庭園)、朝香宮邸(庭園美術館)等々に現在もみることができます。

「文明」の質―近代化の在り方をめぐり

 ここに西郷隆盛は、かかる文明開化の風潮にある種の嫌悪感をもち、政府の在り方に距離をとり、明治の「御一新」に裏切られたとの思いをつのらせる薩摩の士族団に擁立されて決起することとなります。こうした西郷の軌跡に想いを馳せる度に、わたしは幼年の日、講談社の絵本「西郷隆盛」に出会ったときのことが心にうかびます。幼き心に遺った場面は、弟従道が朝食の味噌汁が辛いと飯炊きの老婆に小言を言ったとき、老婆が「お兄さんが何もいわずに食して行かれたもので」とわびると、従道は兄隆盛の大きさにあらためて気づき、味噌汁のごときに不平をもらした己の未熟さを識り、その不明を恥じるという何の変哲もない一場。想うに私にとり西郷隆盛という人の原像はこの一事に発したものです。
 この一事は、人にとり何でもない、つまらないことでしょうが、幼い私の心に突き刺さった棘のようなものです。この幻影は西郷隆盛という人間の名前に出会う度に甦ります。ここには、人間西郷の性ともいえるもの、自己一身にまつわる小事に克つことが大事に向き合えるとの念ではないでしょうか。まさに決起は、中央政府の硬軟おりまぜた西郷懐柔を目の当たりにし、薩摩軍団の意に想いを馳せず、「巨魁西郷」を中央に引き出せば国家安泰とする思惑に対する強烈なしっぺ返しにほかなりません。そこには、政府が強力に進める国家文明化の諸策をみるにつけ、「文明」と囃される世界に眼が及んでいないことへの焦慮にも似た怒りがあったのではないでしょうか。その怒りは西郷の文明批判に読み解くことが出来ます。

文明とは道の普く行はるゝを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些とも分らぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢやと云ひしかば、否な文明ぞと争ふ。否な野蛮ぢやと畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開矇昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れに利するは野蛮ぢやと申せしかば、其人口を莟めて言無かりきとて笑はれける。(『西郷南洲遺訓』)

 この文明論は、アジア・アフリカを植民地とすることが文明への道と説く近代化の論理への批判にほかなりません。想うに日本の近代化は、西郷が論難した「文明の道」を突き進み、アジアの孤児となる歩みでした。その意味では、アジア近隣諸国が日本に突き付ける苦い記憶を我身にのみ込み、近隣を友とする大事に向き合いたいものです。

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