学び!と歴史

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明治天皇神話の創成
2019.01.29
学び!と歴史 <Vol.131>
明治天皇神話の創成
大濱 徹也(おおはま・てつや)

「明治」という国家創成への幻想

 昨年2018年は、「明治150年」だということで、長州山口県出身総理の音頭よろしく、大河ドラマをはじめとする多様な企画が地域おこしの素材として話題となりました。この潮流は、11月3日の「文化の日」を「明治の日」と改称し、「国民の祝日」として明治天皇の記憶をとどめようとの主張を臆面もなく声高に説く言動にみることができます。ここには国民国家日本を形成する器として造形された明治天皇が負わされた物語があります。この物語こそは近代日本の精神を呪縛することとなる「明治天皇神話」を生み出す原器といえるものです。
 11月3日は、明治天皇在世中の誕生日、「天長節」でした。明治天皇没後は、大正天皇の誕生日8月31日が「天長節」となり、7月30日が先帝祭として「明治天皇祭」となります。この「明治天皇祭」は、昭和になると先帝祭が大正天皇の亡くなった12月25日「大正天皇祭」となり、国家暦から消えていきます。そのため明治天皇にはじまる国家創成の営みを国家の記憶として遺すべく、明治の天長節を「明治節」として国家暦にとりこみました。なお大正期には、天長節が8月の暑中休暇中のため、10月31日が「天長節祝日」とされました。
 この作法は、1945年の敗戦後に国家暦に代えて「国民の祝日」を設定するにあたり継承され、昭和天皇が新日本の方途を「文化国家」と宣言したのをふまえ、旧「明治節」を「文化の日」とすることで受け継がれたのです。その意味では敗戦後も日本という国家の在り方は基本的に変わることがありませんでした。
 このような国家の営みこそは、「経済大国」日本が強き閉塞感に覆われている現在、「栄光の明治」なる幻想に時代を突破する活力を見出し、「文化の日」を「明治の日」として「明治天皇神話」を国民の記憶に蘇生しようとの想いにほかなりません。まさに明治天皇をめぐる物語は、日清戦争・日露戦争に勝利し、欧米列強にならぶアジアの大国となった「栄光の明治」に体現された強き国家ナショナリズムを問い語るものでした。まさに明治天皇に体現された時代は、神話の帷に封じ込められ、「栄光」の記憶としてかたりつがれたのです。この記憶はどのように生み育てられたのでしょうか。

天皇病む―「御不例」をめぐり

 1912(明治45)年7月20日付官報号外は「宮廷録事」として天皇が重態であること告げ、「歌舞音曲御遠慮」を示達しました。翌21日の東京朝日新聞は、大見出しで「聖上陛下御重態▽十四日より御臥床あり▽御睡眠の御状態持続す」と報じ、あわただしく参内する皇族元老大臣の動向、憂愁の涙に沈む各界の状況を紹介しています。ここに準備されていた東京両国の川開きを彩る花火をはじめとし、あらゆる興行催事が「自粛」を名目に中止においこまれたのです。それらの関係者は「悄然として」事後処理に追われていると報じられています。人々は交番に掲示された「聖上陛下御容態書」に一喜一憂した。宮城前の光景は次のように報じられています。ここにみられる情景は、「終戦」の玉音放送に反応した二重橋前の群れ、毎年の新年参賀を想起させるものでもあります。

幼きがささやかなる手を合せてひたすらに拝める、身なり賤しきが地の上に土下座とやらして鼻打すすりたる、親子兄弟一家を挙げて来れるが、声を呑みて只柏手をのみ打合せたる、幾百列を正して小学児童の歩み寄れるが、師なる人の命に従ひて儼かに首を下げたる、凡そ祈りまつる様こそ様々なれ(東京朝日新聞 1912年7月28日)

 かかる平癒祈願は神社寺院のみならずキリスト教会等を問わず各宗派が競って催しました。深川不動では参詣者の焚く大護摩の煙が絶えず、キリスト教界ではメソジスト教会連合御平癒祈祷会が東京の本郷教会でもたれるなど、各教派が日曜礼拝で平癒の祈りをささげたのです。この祈りは、「赤誠」披歴の忠誠競争ともいえる様相をおびており、鎮守の杜のみならず、宮城に向かい祈りを捧げるにふさわしい適地、高台などに造営された遥拝所など全国各地津津浦浦でみられました。

明治天皇御大葬奉送始末 P22(国立国会図書館ウェブサイトより転載) 明治天皇御大葬奉送始末 P30(国立国会図書館ウェブサイトより転載)

「民安かれ」との祈り

 ニシン漁でにぎわう北海道余市町では、モイレ山に設けられた祈願所が崩御後の1913(大正2)年に明治天皇遥拝殿となり、明治神社とされました。政府は各地でみられた明治天皇を祭神とする神社造営の動きを規制します。ここに余市の明治神社は「明治神明社」として余市神社にとりこまれました。
 北海道の北辺、天塩川河口の町天塩は、日露戦後の造材景気にうながされ、多様な移住者でにぎわっていました。このような住民の心はホロシリ山(アイヌ語でポロは大きい、シリは山の意。標高181.8m)に設立された明治天皇御陵の遥拝殿に託されました。この遥拝殿は明治天皇と明治の功臣の霊を祀る明治神社となり、ホロシリ山は「民安山」と命名されました。「民安」なる命名は、明治天皇の御製「とこしえに民安かれといのるなる我が世をまもれ伊勢の大神」からきたものです。かくかたられる明治天皇に寄せる思いは、天皇の治世がもたらした近代日本の「栄光」像への追慕であり、天皇の死がもたらした不安に満ちた日本の前途を打開したいとの心意の表明にほかなりません。
 いわば「民安かれ」との祈りこそは、明治天皇の治世がもたらした「栄光の明治」という物語を国民が共有する社会の記憶となし、国民を結集する磁場として明治天皇神話を創成していく器となります。ここに国家は、明治天皇を「国家神」として祀る明治神宮の創建を国民運動として展開することで、大地に生きる民の祈りが託された明治天皇をめぐる物語を神話として増幅させ、国民精神の砦を構築したのです。

参考文献

  • 村田文江『ふるさと天塩』天塩町 1992年
  • 大濱『歴史の読み方、学び方』北海道教育大学釧路校社会科教育第1研究室 2011年
  • 大濱「文明開化の下で」『改訂版 講談日本通史』同成社 2018年