学び!と人権

学び!と人権

Society5.0により必要となる人権教育
2021.08.05
学び!と人権 <Vol.03>
Society5.0により必要となる人権教育
森 実(もり・みのる)

1.Society5.0のユートピアとディストピアを左右するもの

 SDGsは、国連が提唱している取り組みの中でも、とくに世界が注目し、積極的に関わろうとしていると言えます。日本でもその点は同じで、最近では、企業をはじめ、SDGsへの関わりを表明している団体 がたくさん出てきています。
 文部科学省もその一つと言えます。しかし、最新の中教審答申「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(答申) 」(2021年1月26日)では、「SDGs」ということばが4回登場するのに対して、「Society5.0」ということばは21回登場します。文部科学省の問題意識がどちらにあるかをうかがえるかもしれません。また、AIが支配する社会について楽観的な見通しをもっていることも答申から感じられます。
 AIの支配する社会については、さまざまな危惧の声があります。2018年3月に亡くなったホーキング博士も、ゆくゆくは、人間とAIとの対立や戦争が起こりかねないと考えていたとのことです。それ以外の人たちの主張を読んでも、2030年代には特化型AI(特定領域をコントロールするAI)が広がり、2040年代になると汎用型AI(社会全体をコントロールするAI)が登場するといった予測があります。こうなってくると、映画の『ターミネーター』や『バイオハザード』などの世界が現実のものとなってしまいかねないということになります。すでに、マイクロソフト社がつくったAI「TAY」が、ツイッターとの対話を通して人種差別主義的反応を示すようになり、マイクロソフト社は「TAY」の電源を切ったと2016年3月に報じられています。
 この段階で重要になるのは、AIのプログラムの根底に人権擁護を組み込めるかどうかではないでしょうか。そして、そのためには、人間が人権についてしっかりと整理し、使いこなすことができるようになることが不可欠です。ここでも結局、人権や人権教育が人類の存続を左右するだろうということです。
 現に、日本政府は2018年12月13日に「人工知能(AI)に関する7つの基本原則」という文書を発表しており、その第1は「AIは人間の基本的人権を侵さない」と定めています。原則のトップに人権が置かれていることは重要です。しかし問題は、どういうふうにすればそれを具体化できるかという点です。ここでも、わたしたち人間自身が人権についてしっかりと整理し、人権をAIの土台の土台に組み込めるほど使いこなせなければ、到底それを望むことはできないということなのです。

2.人権に関連して整理されるべき課題

 では、人権に関わって整理されるべき課題として、どのような事柄があるのでしょうか。ここでは、いくつかをあげて論じることにしましょう。
 人権と関連して整理されるべき事柄はさまざまにあります。たとえば、「まだ死にたくない」と言っている人が老衰によって死んだなら、その人は「生命への権利」(世界人権宣言第3条)を冒されたと言うべきでしょうか。医師になりたかったのに、医師国家試験に落ちてなれなかった人は「職業選択の自由」(世界人権宣言第23条)を奪われたことになるのでしょうか。このように、人権に関わって重要なテーマでありながら、ふだんはあまり議論されていない事柄がいろいろとあります。こういう議論は、人権論にあっては初歩的なテーマなので、すでに整理はされているのですが、とくに子どもたちにとっては未整理感の強いテーマに止まっているのではないでしょうか。教員の間でも、ひょっとすると未整理な場合があるかもしれません。人権を天賦人権説のようにあらかじめ与えられ、疑問を差し挟む余地のない理念と考えていたり、文字面だけで人権を理解したりしていると、こういう議論が深まりにくいものです。こういうテーマで議論してみることによって、人権論の整合性や的確性がわかってくるようになる面があります。
 さまざまにテーマがある中で、近年特に大きな議論の的になっている問題として、ネット上の差別メッセージという問題があります。日本社会は、たとえば「言論の自由」や「営業の自由」と「差別の禁止」との関係を整理する明解な論理をどう持ち合わせているでしょうか。これまで、日本では、部落差別や民族差別などの差別を法的に処罰するという法律はありませんでした。その根拠となってきたのは、「営業の自由」や「言論の自由」です。
 一方、国連では、1965年に採択された「人種差別撤廃条約」のなかで次のように定めています。

第4条
 締約国は、一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別(形態のいかんを問わない。)を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束する。このため、締約国は、世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って、特に次のことを行う。
(a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること。
(b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。
(c)国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長し又は扇動することを認めないこと。

 以上の引用からわかるように、国連では、人種差別行為だけではなく、人種差別を宣伝・扇動することも含めて法律的に処罰の対象とすべきだと主張しています。ここでは、「言論の自由」や「営業の自由」よりも「差別の禁止」を上に置いていることが明らかです。人種差別を宣伝・扇動するような「言論の自由」や「営業の自由」はないということです。
 近年、日本国内では、部落差別などに関連してネット上で差別的メッセージの広がりが問題として指摘されています。とくに、同和地区の住所を記した上で、その地域の映像を流しているという問題が大きく指摘されています。そのような問題も、人種差別撤廃条約の第4条に従うなら、法律的規制の対象とされるべきだということになります。
 日本も人種差別撤廃条約に1995年に参加しているのですから、条約に従って差別の宣伝や扇動を禁止してもよいはずです。ところがそうなってはいません。同条約に参加するにあたって日本政府は同条約第4条(a)及び(b)を留保し、現在に至ってもそれを継続していることに関わります。
 そもそも、日本政府は、部落差別は人種差別ではないという立場をとり続けています。この点は、人種差別撤廃条約の立場と対立しています。同条約の第1条1は、人種差別を次のように規定しています。

第1条
1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。

 この条文の中の「世系」ということばは、インドにおけるカースト制度などを想定しています。インドのカースト制も国連の文脈では人種差別の中に含められているということになります。国連では、当然のごとく部落差別についてもこの人種差別の枠組みに含まれると考えています。しかるに日本政府はそれを認めないまま4分の1世紀が過ぎました。国連の人種差別撤廃委員会は、2018年8月30日の総括所見 で日本政府に対して、次のように勧告しています。

人種差別に関する法的枠組み
7.委員会は,前回の勧告(CERD/C/JPN/CO/7-9, パラグラフ8-9)にもかかわらず,日本国憲法における人種差別の定義が,いまだ本条約第1条に沿うものではないこと及び人種差別を禁止する包括法が締約国に存在しないことを遺憾に思う。(第1条及び第2条)
8.委員会は,締約国が,人種差別の定義を,本条約第1条第1項に沿ったものとするよう確保し,民族的又は種族的出身,皮膚の色及び世系に基づくものを含むものとするべきとの過去の勧告を強調する。また,委員会は,締約国が,本条約第1条及び第2条に沿った直接的及び間接的な人種差別を禁止する個別の包括的な法律を制定することを要請する。

 人権に関わる問いは他にもあり得ます。
 このように、人権について考えることの重要性は、Society5.0を構想するうえでも欠くことはできません。それでは、わたしたち人間自身が人権をそれほど使いこなせるようになっているでしょうか。次回からは、個別の人権課題に即して考えていくことにしましょう。