学び!と人権

学び!と人権

障害者の人権と教育(その2)
2022.07.07
学び!と人権 <Vol.14>
障害者の人権と教育(その2)
森 実(もり・みのる)

1.みんないっしょに学校に行くんや

 前回、わたしが障害者の介護に入るようになったという話を紹介しました。ちょうどその頃、1970年代から1980年代にかけて、大阪などでは、障害のある子どもも地域の学校に行って、他の子どもたちといっしょに教室で学ぶという取り組みが広がっていました。
 わたしは、1年間にわたって大阪府内にある小学校に入れてもらっていた時期があります。おもに1年生のクラスにお世話になりながら、他の学年や、隣にある中学校にもお邪魔しました。おもにお世話になった1年生のクラスに、自閉症の子どもBさんがいました。いろいろなことが印象に残っています。
 あるときのこと、席替えがありました。Bさんの隣になったのはCさんでした。CさんがBさんの隣になったのは初めてです。席替えのあったそのすぐ後の授業中でした。CさんはBさんの手首と肘の間あたりをぎゅっとつねりました。これだけ書くと、「Cさんが障害のある子に暴力を振るった」という印象になるかもしれません。でも、ちがいます。
 Cさんは、そのとき、Bさんの顔を見ながらはじめはゆっくり、次第に少し強くつねったのです。Bさんは、<いたい!いたい!>とばかりの表情で、つねられた腕を振るいCさんの手を払いのけようとしました。Bさんの反応を見たCさんは、安心したような表情で授業に戻っていきました。つねられると自分と同じようにBさんも痛いんだとわかって、Cさんは安心したように見えました。
 また梅雨になったころのある日のこと。「おわりの会」で先生がPTA新聞『青葉』を配っていました。Bさんの席にも『青葉』が配られました。すると、Bさんは『青葉』の本文を、声を出して読み始めました。それを見た先生は「Bさん、前においで」といってBさんを教壇に立たせ、「いまからBさんが『青葉』を読みます」と紹介しました。Bさんは「あ・お・ば」とタイトルから読み始め、するすると本文を読んでいきました。Bさんは、小学校1年生だというのに、中学年から高学年の漢字が読めるのです。これにはみんなもびっくり。声があちこちから上がりました。その数日後、さきのCさんの親御さんからメッセージが届きました。Cさんは、家に帰って「Bちゃん、えらいねんで。『青葉』ぜんぶ読めるねん」と報告したそうです。
 Cさんと別なDさんがBさんの隣になったこともあります。Dさんは、どうしていいのか、途方に暮れたような表情で隣にいました。休み時間になっても、Bさんにどうしていいのかと困った表情をしていました。Dさんは勉強のよくできる子どもです。でも、いきなりの関わり方がわからず、とまどっていたようです。日が経つにつれて、Dさんも関わり方を心得たようになっていきました。
 またある日のこと、教室からみんなが手をつないで2列になり、体育館に移動することがありました。教室の前の廊下ではきれいに2列になっていたのですが、体育館の前に着くころには、列はぐちゃぐちゃ。子どもたちはそれぞれに声を出しておしゃべりしています。Bさんはというと、列を離れて一人いました。誰かが「Bちゃんがあんなところにおる」といいました。先生は「なんでやと思う?」と尋ねました。「みんながおしゃべりしてるから」と誰かが答えます。先生は「そうか、ほんならみんなしずかに並んでみよか」と言いました。ちょっとざわざわしていた子どもたちは、おしゃべりをやめて2列に戻ります。そうすると、Bさんは列に戻っていきました。
 運動会でのことです。1年生はマスゲームで体操を披露しました。運動会終了後に、Bさんのお母さんが担任の先生に話しに来られました。「うちの子どもがどこにいるのかわからなくて、うれしかったです。」そんな風に涙を浮かべながら言われたそうです。保育所時代には、Bさんはみんなの中に入っていけず、一人離れて行動していたので、いつも目立っていました。それが小学校に入ってからはクラスになじんで目立たなくなったというのです。

2.子どもたちの進路

 小学校1年生はこんな様子でも、高学年になり、中学校になったら競争に巻き込まれてそんな風ではありえないのではないか。そう感じている人もいるかもしれません。その小学校には、ダウン症のEさんや自閉症のFさんなどの先輩がいます。さきのBさんが小学校1年生のときには、すでにEさんが中学校2年生、Fさんは高校1年生になっていました。
 先輩たちが小学校から中学校に上がるとき、子どもたちは署名を集めました。「Eさんは、小学校では私たちと一緒にクラスで勉強していました。だから、中学校になっても、一緒のクラスで学べるようにしてください」という署名です。中学校から高校に上がるときにも、「Fさんは、自分たちと一緒に暮らしてきました。だから高校でも、一緒に暮らして学べるようにしてください」という署名を集め、地元の高校の校長先生にもっていきました。
 結果として、EさんやFさんといった障害のある子どもたちがその高校に入れたわけではありませんでした。けれども、養護学校の高等部に通いながら、地元の高校生たちと交流する活動が活発に展開されていきました。もちろん在籍する養護学校に対しても、地元の高校との連携・協力を呼びかけました。これは、養護学校そのものの在り方を問いかける取り組みだったのです。
 まわりの子どもたちにとっても、この取り組みは意味をもっていました。小学校時代からEさんのそばにいて、一番関わりの深かった一人、Gさんがいます。Gさんは学力面で厳しく、高校進学をほとんどあきらめていました。Eさんが高校に入れるようにと運動が広がるなかで、自分の進路を改めて考えるようになりました。「Eが行くための運動をしてるのに、おまえが行かんでどうするねん。一番の友だちやないか」とまわりからも言われました。まわりの子どもたちの勉強面での支援もあり、Gさんは地元の高校に入り、卒業していきました。

3.障害者の権利条約

 それから30年近くたって障害者の権利条約ができました。「Nothing about us, without us! わたしたち抜きに、わたしたちに関わることを一つたりとも決めるな!」というスローガンのもとに生まれた条約です。そこには、「青い芝の会」の行動綱領にあった精神がそのまま集約されていました。
 障害者の権利条約はまた、その第2条で次のように定めています。

「障害に基づく差別」とは、障害に基づくあらゆる区別、排除又は制限であって、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のあらゆる分野において、他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を認識し、享有し、又は行使することを害し、又は妨げる目的又は効果を有するものをいう。障害に基づく差別には、あらゆる形態の差別(合理的配慮の否定を含む。)を含む。

(障害者の権利条約第2条、抜粋)

 さきの学校での実践に基づいて述べれば、小学校での実践はこれを体現しているといえます。子どもたちは障害の有無に関係なく、同じ教室で排除や制限もなく一緒に学んでいました。目的という点でも効果という点でも、人権や基本的自由を阻害することはありませんでした。さまざまな合理的配慮が、配慮とも自覚されないほど自然に実践されていました。中学校でも、基本的には同じ考え方や方法で取り組まれました。
 問題は高校です。日本の高校では、学力などによって子どもたちが区別され、排除され、制限され、基本的人権の享受を妨げます。障害のある子どもは、高校へ進学したいなら基本的に特別支援学校入学を勧められます。高校入学にあたって合理的配慮の入り込む余地がほとんどありません。もちろん、障害の「種類」や「程度」によっては対応されることもあります。しかし、先に挙げた自閉症の子どもなどはほとんど、住んでいるところに近い高校に進学できません。
 少なくとも、わたしが学校に入れてもらっていた1980年代はこの通りでした。今は何がどれほど変わっているでしょうか。

 「障害者の権利条約」を批准した日本では、「障害者差別解消推進法」を制定し、同法が2016年3月に施行されました。その法にも関連して、現在の日本では、どのような状況になっているのでしょう。

アメリカ・ニューヨークの国連本部で、障害者の権利条約に調印する高村正彦外相(中央、2007年当時)