学び!と人権

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障害者の人権と教育(その3) 「個人モデル」と「社会モデル」を考える
2022.08.05
学び!と人権 <Vol.15>
障害者の人権と教育(その3) 「個人モデル」と「社会モデル」を考える
森 実(もり・みのる)

①障害者問題に関わる「個人モデル」と「社会モデル」

 障害者の権利条約で提起されている重要な捉え方の一つが「個人モデル」と「社会モデル」です。大学の授業などでこの二つの違いを説明すると、ときとして「理解しにくい」という声が出てきます。そこで、どう説明すればわかりやすいだろうかと考えてきました。
 「障害の個人モデル」とは、「障害は個人にあるのであって、その個人側のくふうや努力、治療などによって解決するべきものである」という考え方のことです。それに対して「障害の社会モデル」とは、「障害は社会の側にあるのであって、社会の側のくふうや努力、改革などによって解決するべきものである」ということになります。
 多くの場合、わたしたちが暗黙のうちにイメージしているのが「個人モデル」で、結果として、わたしたちは障害者に対して「あの人には障害がある」と「上から目線」で見てしまいやすいのではないでしょうか。問題の根っこはこれです。わたしは、障害の「個人モデル」と「社会モデル」を説明するときに、次のような例を出すことがあります。

②駅のホームまで上がる思考実験

 Aの図を見てください。車椅子を使っている人が駅の改札を入り、階段の下にいたとします。周りにエレベーターなどはありません。このような場面を見ると、わたしたちは「ああ、この人は車いすユーザーだからホームに上がれないんだ」と思う場合が多いのではないでしょうか。この場合、わたしたちは「この人には障害があるから……」と思ってしまいやすいのではないかということです。
 では、次のBの図のような場合はどうでしょう。
 ある駅では、改札口とホームの間に階段がなく、5メートルほどの絶壁だったとします。こういう場面に出くわしたら、わたしたちは多くの場合、「なんという駅だ」と、駅の方に問題があると思うのではないでしょうか。ここでは、「わたし」の側に問題や障害があるとは、ほとんどの場合、思いません。
 けれども、もしもわたしたちのほとんどには翼があって、必要ならばパタパタとホームまで軽々と飛べるとしたら、この絶壁はその人たちにとって問題ではないことでしょう。その場合、問題は、二足歩行しかできず、羽ばたいて飛べない「わたし」の方にあることになります。これがC図です。
 これは思考実験でしかありませんが、このことからわかるのは、階段というのは、二足歩行する人への配慮から生まれたものだということです。階段付きの駅では、二足歩行の人には配慮があるのに、車いすユーザーには配慮がないということになります。
 石川准(静岡県立大学国際関係学部教授)さんのように、こういう状況を「配慮の不平等」 と呼ぶ人がいます。「配慮の不平等」とは、こんなふうに、いわゆる健常者にはたくさんの配慮がある一方で、障害者にはほとんど配慮のない状態をさしています。階段の他にエレベーターがあれば、二足歩行する人には物理的に言って選択肢が二つということになります。それに対して車いすユーザーには選択肢が物理的には一つしかないことになります。

③「個人モデル」と「社会モデル」

 Aのような状態で「車いすユーザーに障害がある」と考えるのが「障害の個人モデル」の発想です。Bのような状態で「駅が絶壁構造になっているのが問題だ」と考えるのが「障害の社会モデル」の発想だということになります。
 要するに、現在の「個人モデル」に立った社会は「健常者」中心にできていて、配慮が不平等になっている。「社会モデル」に変えていってすべての人が利用できるようにすることによって、ようやく社会が公平な場になるという考え方です。
 このモデルが前提としているのは、すべての人には、電車などを利用して自由に移動する権利があるということです。それにもかかわらず対応していないというのは、社会の側に問題(障害)があるということです。「障害の社会モデル」や「配慮の不平等」という概念を参考にすると、「移動の自由」という人権を前提とすれば、二足歩行する人たちに対しては階段という配慮があるのに、車いすユーザーにはその配慮がないということがハッキリしやすく、これが二足歩行する人間にとって特権となっているということが、わかりやすいのではないかと思います。

④女性差別と重ね合わせて

 安心して電車に乗れるということで言えば、女性専用車両が話題になることがあります。女性のなかに痴漢被害に遭うなどして電車に乗るのが不安だという人がいます。電車に乗って安心して移動することがわたしたちみんなの権利としてあるなら、痴漢の根絶は社会的課題と言えるはずです。わたしたちの社会は、痴漢根絶に向けて動いています。その途上に出てきているのが、女性専用車両です。これは、痴漢根絶という問題意識で言えば、根絶にはほど遠く、ほんの入り口にでしかない施策です。痴漢する人がいることによって、冤罪をかけられるのではないかと、男性も安心して電車に乗れなくなっています。痴漢と誤解されないようにあれこれと配慮しながら乗っているのです。今求められているのは、女性専用車両の是非を問うよりも、痴漢根絶には何が必要かを考えることではないでしょうか。わたしたちに共通の敵は、痴漢をする人であり、それを助長している社会です。女性対男性という枠組みで考えると問題がずれ、課題解決から遠ざかるように思えます。
 女性差別との関連をさらに広げて考えてみましょう。妊娠や出産をどう捉えるかという問題です。
 たとえばある企業では、「女性は妊娠・出産すると能率が下がるから退職してもらおう」というルールを明文化していたとします(現在の社会で、このようなルールを明文化している企業はごく限られていると思います。現在では、「明らかに差別」とみなされるからです)。このような会社では、生理もなく、妊娠も出産もしない男性だけを社員と想定してルールを作っていることになります。他にも、「家事や育児は女性の仕事で男性はする必要がない」といった考え方の問題もあります。
 もしも、「毎日20時間を労働時間とする」というルールの企業があったとしましょう。余暇や休息の時間はありません。睡眠時間は1日あたり2時間程度にならざるを得ません(このような企業は限られているでしょう。労働基準法に明らかに反するからです)。そのような会社があったとしたら、仮に労働基準法を知らなかったとしても、男性社員も怒るでしょう。そんな労働条件で働ける人はほぼいないからです。けれども、もしもわたしたちのほとんどが1日2時間睡眠で疲労がとれ、全く問題がなかったなら、この労働条件は問題にならないかもしれません。
 さきの「個人モデル」と「社会モデル」でいえば、女性を排除するような労働条件を当然視しているような企業は、いわば出産について「個人モデル」で制度が作られていることになります。そのような企業にとって、出産は個人の事情であり、出産する女性の側に問題があるのです。それに対して、生理があり、妊娠・出産しても何ら不利になることがないようなルールを持っている企業があるとすれば、それは出産について「社会モデル」に即してつくられている企業だということになります。そのような企業は、「出産というのは、わたしたちの社会が存続する上で不可欠である。だから、妊娠や出産は本人たちが安心して決められるようにする必要がある。しかも男女を問わず働く権利がある」という考え方に立って経営されていることになります。
 女性が出産しなくなったら、社会は存続しなくなりますから、この想定はさほど極端ではありません。日本では女性が生涯にわたって出産する子どもの数(合計特殊出生率)が2019年に1.36人となっています。これは、もしもこの数字が続いたら、500年後には日本には、和人系日本人が100万人しかいなくなるぐらいの数字なのだそうです。その後、合計特殊出生率は2019年よりも下がって、1.30ぐらいになっていますから、この減り方はもっと大きいことになります。「これは女性のストライキだ」とみることもできるかもしれません。

⑤「医療モデル」「福祉モデル」「人権モデル」

 このように見てくると、「社会モデル」の考え方は障害者以外にも当てはめることが可能であり、その前提には人権という考え方があると改めてわかります。ここで取り上げた例で言えば、移動の自由、就労の権利、出産や育児の権利(性と生殖の権利)などです。そこで、「社会モデル」を「人権モデル」と呼ぶ方が的確ではないのかという意見 が出てきます。
 また、さきに上げた駅の階段などについては、直接的には身の回りの事柄だけを指しており、これは社会全体を変えようというよりも、すぐ身の回りにある環境だけを変えればよいという発想にもつながりかねません。人と人との関係で言えば、周りの人が障害のある人に配慮して行動できるようになればよいという発想に止まりかねないということです。「社会モデル」というのは、もともと社会全体を人権という考え方に立って作り替えようとするものだったはずです。そうだとすれば、身の回りにある施設・設備や、周りにいる人という資源だけに依存する考え方とは一線を画すと言ってよいでしょう。そこで、周りの人との人間関係も含めて、身の回りをおもに問題にする考え方のことを「福祉モデル」と呼ぶことがあります。
 「個人モデル」については、もともと提案されたときから「医療モデル」という言い方と並べられていました。
 実は、この「医療モデル」「福祉モデル」「人権モデル」という言い方に、わたしは障害者問題以外の場面で出合ってきました。それは、「子どもの商業的性的搾取 」という文脈です。1990年代、「フィリピンやタイなどの国に日本などいわゆる先進国の男性が出向き、現地で子どもの性を買っている。これを根絶させよう」という運動が始まりました。その取り組みの一環として、わたしはフィリピンに向かい、現地でフィールドワークをしたのですが、そのなかでフィリピン大学の取り組みに出合いました。ここでは、そのフィリピン大学の取り組みの中から、ここに関連するところだけを取り上げます。
 子どもへの性的虐待や性的搾取の被害から回復をめざす取り組みでは、「医療モデル」から活動が始まりました。心や体の傷をケアするという取り組みです。それに対して、回復にはまわりの資源を活用することが大切だという立場が表れました。これが「福祉モデル」です。この二つは、被害に遭った子どもたちに着目し、その子どもたちを何とか支援しようとする考え方でした。それに対して、フィリピン大学の人たちは、さらに一歩進めて、子どもたちの権利保障を前提として社会全体を変えようとする立場に立とうとしていました。彼らはこれを「人権モデル」と呼んでいました。
 わたしには、子ども虐待という問題に関わるこの進展と、障害者問題に関わる進展とが重なり合って感じられます。そして、この枠組みは、他の様々な問題に広がっていくといえます。

【参考・引用文献】
・星加良司(東京大学大学院教育学研究科付属バリアフリー教育開発研究センター准教授)「障害者における『移動の平等』」(logmi Biz)
・大阪府ウェブサイト
・森実「CSEC(シーセック)を知っていますか」(ヒューライツ大阪ウェブサイト『国際人権ひろば』 No.41 2002年1月発行号)