学び!と人権

学び!と人権

共通の課題(その1) 人権に取り組む三つのモデル
2024.04.05
学び!と人権 <Vol.27>
共通の課題(その1) 人権に取り組む三つのモデル
森 実(もり・みのる)

 これまでこの連載では、個別の人権課題をテーマに取り上げ、その領域でどのようなことが課題とされ、どのようなことが議論されているのかを紹介してきました。今回から数回にわたっては、様々な人権課題に共通して必要となるテーマを取り上げます。個別人権課題を取り上げるのはいったん中断するわけですが、また、先々に個別人権課題へと戻る予定です。
 今回から数回にわたって取り上げるのは、これまでの連載で紹介したいずれかの人権課題から提起されたテーマです。しかし、それらは、その人権課題だけではなく、様々な人権課題について共通して重要になるテーマだとわたしには思えます。今回は、人権教育や人権問題に取り組むときに考えるべき三つのモデルについてです。

1.障害をめぐる「人権モデル」の登場

 この連載の第15回でもふれたところなのですが、障害者問題に関わって日本では、「障害の個人モデル」(あるいは「医療モデル」)と「障害の社会モデル」を対比して使うことが多かったといえます。一方、最近の国連ではこの二つの対比ではなく、「障害の治療モデル」と「障害の人権モデル」という二つを対比的に使っています。たとえば2022(令和4)年9月に、国連障害者権利委員会が「日本の第1回報告に対する総括所見 」を出しました。障害者権利条約の規定に則って、日本政府が自国の実情や政策について初めて報告しました。それを、国連障害者権利委員会が審査して、全体としてチェックしたのです。この「総括所見」には、「障害の社会モデル」という言葉はまったく出てきません。それに対して「障害の人権モデル」という言葉は7回出てきます。これは日本以外の国に対しても同じです。どの国の報告 に対しても、国連障害者権利委員会は、「社会モデル」ではなく「人権モデル」という概念で総括所見を書いています。
 日本政府に対する「総括所見」で、最初の「一般原則」に位置づけられた懸念事項7項目の1番目(a)、つまり日本政府の法律や政策における問題を指摘するトップに出てくるのは、次の内容です。

(a)The lack of harmonization of disability-related national legislation and policies with the human rights model of disability as contained in the Convention, which perpetuates a paternalist approach to persons with disabilities;

(a)障害に関連する国内法制及び政策が、一貫して障害のある人に対する保護者気取りのアプローチに立っており、本条約に含まれる障害の人権モデルと合致していない。(*1)

(翻訳は森による)

 要するに、日本の法制や政策は、条約の「人権モデル」の立場と相容れないというのです。このように指摘された日本政府としては、「人権モデル」について整理し、それに対して何らかの対応を迫られることになったはず です。ところが、その後の議論で、この点が日本政府によりどのように吟味されたかはよく分からないのが実情です。
 今回の連載では、まずこれらのモデルが何を意味するのかを考えます。日本に対する国連の指摘を受けとめるには、この作業が重要に思えるからです。

障害者権利条約をめぐり、日本政府への審査が行われた会議室で、国連の障害者権利委員会の委員らと一緒に集まった日本の障害者たち(スイス・ジュネーブ、2022年8月 写真提供:共同通信社)

2.障害をめぐる2種類のモデル
~「個人モデル」と「社会モデル」から「治療モデル」と「人権モデル」へ~

 「社会モデル」と「人権モデル」の関係について、様々な人が発信しています。たとえば、アンハラッド・ベケットさん は、アンナ・ローソンさんと連名で、「社会モデル」というのは「障害のモデル」であるのに対して、「人権モデル」というのは「障害政策のモデル」なのであり、両者は相補的な関係にあると言っています。一方、テレジア・デグナーさん は、障害者権利条約は、「人権モデル」を法典化したものだと主張しています。デグナーさんは障害者権利委員会で2014-2018年のあいだ委員をしていました。委員長だった時期もあるとのことです。2016(平成28)年にソウルで行われた「障害者権利条約10周年記念国際シンポジウム 」の報告を読むと、デグナーさんの立場や人柄が浮かびます。デグナーさんによると、「人権モデル」は「社会モデル」が進化して生まれたものだということです。このように、いろいろな意見があるのですが、認識で一致しているのは、現在の国連は「人権モデル」を基本に据えてメッセージを発信しているという事実です。
 わたしなりに、この二つの概念について説明すると、次のようになります。「障害の治療モデル」とは、障害の原因や責任は個人にあるのであり、それを本人や家族が「治療して治す」あるいは「機能訓練する」ことが重要だとする考え方です。それに対して、「障害の人権モデル」は、障害の原因や責任は社会の側にあるとし、障害者を人権の主体と認め、障害者自身の権利主張を尊重するとともに、国際人権基準などに定める水準で、権利を保障する責任が国や社会にあると主張するものです。

3.社会的課題を捉える三つのモデル

 以上のように、障害者に関わっては「治療モデル」と「人権モデル」という概念が掲げられて議論されるようになりました。この連載の第15回でも触れたように、これら二つのモデルも参考に、様々な人権課題に取り組む上で、三つの立場があるとわたしは考えています。
 一つは、「自己責任モデル」です。この発想に立つと、様々な被差別状況や、不利益状況の原因、責任は本人や家族にあると考えることになります。だから、解決のためにも、本人たちが努力することを求めます。障害のある人たちについては、その障害があるのはその人たちの方なのだから、障害をなくすために医学的に治療しようとしたり、隔離してでもトレーニングしたりすることが何よりも必要だということになります。このように、「自己責任モデル」は、「障害の治療モデル」や「障害の個人モデル」と言われていたものに対応しています。
 もう一つは、「人権モデル」です。この考え方に立つと、様々な被差別状況や不利益状況の原因や責任は、社会の側にこそあると考えます。車いすユーザーが、階段しかない駅でホームまで上がれないなら、移動の自由を保障していない社会の側の責任だというのです。だから、エレベーターなどを設置して、すべての人が「移動の自由」(移動権)という権利を行使できるように保障するのが社会の責任だということになります。それを実現する上で重要なのがいわゆる当事者たちの声です。障害者権利条約をつくる過程では、障害のある人たちの声を土台に据えて、社会を変えていくことが求められました。「Nothing about us, without us!」、すなわち、「わたしたちに関することをわたしたち抜きに一つたりとも決めるな」というのが重要な原則となったのです。実現すべき水準は、国際人権条約の各条文に定められていることがらです。このように、ここでいう「人権モデル」は、「障害の人権モデル」とほぼ同じということができます。
 これら二つのあいだに「福祉モデル」があります。福祉モデルの考え方に立つと、どちらの責任が第一かはあまり重要ではありません。「かわいそうな人たちがいるから助けて引き上げてあげるべきだ」ということになります。「わたしも、できることをしてあげよう」という発想です。国連が日本政府の法制や政策について「一貫して障害のある人に対する保護者気取りのアプローチを採用」していると指摘していますが、そこでいう「保護者気取りのアプローチ」という言葉と対応しています。このモデルに対応する言葉として、先に紹介したデグナーさんは「福祉アプローチ」や「慈善モデル」などの言葉を批判的に使い、「慈善ではなく権利を」という障害者運動のスローガンを紹介しています。デグナーさんだけではなく、国連障害者権利委員会も、たとえばフィリピンへの総括所見 において「条約の人権モデルとは全く対照的な医療的及び慈善的アプローチが広がっている」と指摘しています。さらに、デグナーさんは、開発問題に関わる枠組みを引き合いに出し、「開発における⼈権アプローチは、貧困のなかで暮らす人々は、福祉や慈善の対象ではなく、資源の配分やニーズの評価に意⾒がある権利保有者であることを意味する」とも述べています。
 「福祉モデル」か「人権モデル」かを見分けるポイントはどこにあるのでしょうか。その一つは、被差別当事者の意見にどう向き合うかです。「福祉モデル」に立ち、保護者気取りで被差別者に向き合っている人は、相手が自分に対して差別性を指摘したときや、社会に対して権利主張を始めたときに去って行ったり、非難し始めたりします。「人権モデル」に立っている人は、権利主張を始めた人を歓迎し、共に闘う人が増えたことを喜びます。自分の差別性を指摘されたときには、それを受けとめ、立ち止まって自分の言動を振り返ろうとします。そして、自分の加差別性とともに被差別性を考えようとするのです。
 説明の途中で触れたように、この三つのモデルという枠組みは、障害者権利条約で語られる「治療モデル」と「人権モデル」を下敷きにしています。そして、三つのモデルとして捉えることにより、様々な問題に一般化できるようになるとわたしは考えています。

4.部落差別と三つのモデル

 この連載の第15回 では、「個人モデル」と「社会モデル」を女性差別に引きつけて考えました。今回は、三つのモデルの意味を考えるために、部落差別に引きつけて考えてみましょう。ここで注目するのは1922(大正11)年に出された「水平社宣言 」です。
 水平社宣言は、「吾らの爲の運動が、何等の有難い効果を齎(もたら)さなかった」と述べています。さらに、「これ等の人間を勦(いたわ)るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた」としています。これは、様々な融和事業や融和運動を指しているといわれていますが、融和事業や融和運動に当てはまるのが「福祉モデル」(慈善モデル)です。
 また、宣言は「ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた」としています。社会は「と畜や精肉、皮革の仕事をしているから穢れている、または何をするかわからず怖いから差別する」というのです。そんな仕事をしているのが悪いというのですから、先のように言う人たちの行動原理となっているのが「自己責任モデル」だといえます。そのような仕事をしているからという理由づけで差別されてきたことを問題にしています。
 宣言は最後に、「人の世の冷たさが、何(ど)んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである」として「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と締めくくっています。これは、「吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である」という言葉とセットになって「人権モデル」だということができるでしょう。
 このように読んだとすれば、部落解放運動は100年前から三つのモデルを意識していたともいえます。
 女性差別や部落差別だけではなく、様々な差別問題について、この三つのモデルは有効に思えます。現に、デグナーさんは開発問題でも同様の枠組みがありうるとしています。

5.三つのモデルを意識した教育実践

 教育に取り組むときにも、わたしたちは三つのモデルのいずれかに近い考え方をしていることが多いといえます。ときには無自覚のうちにいずれかの発想に立っていることもあります。たとえばある人は、この三つのモデルについて学んだ後、自分の教育実践を振り返って、「自分の考え方は福祉モデルにとどまっていた」と発言しました。
 上のような整理の仕方だけでは、実際の教育実践にどのような意味があるのかよく分からないという人もいるでしょう。その場合には、次のような事例について考えてみるのも一つの方法です。
 以下の例で「自己責任モデル」「福祉モデル」「人権モデル」に立って行う対応はどのように異なるでしょう。例文だけで判断しにくいときには、それぞれの人や、その周りの様子をもっと具体的に想定して考えてください。

事例1Aさんは知的障害があり、たくさんのものから一つを選ぶのは難しい。Aさんが食堂で食べ物を注文するとき、どんな問題状況が発生し、それに対してどうするか?

  • 自己責任モデルの場合……
  • 福祉モデルの場合…………
  • 人権モデルの場合…………

事例2Bさんは、半年前に海外から日本に来て、日本語が十分にできない。Bさんが暮らしていくうえでどんな問題状況が発生し、それに対してどうするか?

  • 自己責任モデルの場合……
  • 福祉モデルの場合…………
  • 人権モデルの場合…………

事例3Cさんは、妊娠して3か月である。Cさんが今後暮らしていくなかでどんな問題状況が発生し、それに対してどうするか?

  • 自己責任モデルの場合……
  • 福祉モデルの場合…………
  • 人権モデルの場合…………

*1:外務省の仮訳によると、総括所見のこの箇所は「障害者への温情主義的アプローチの適用による障害に関連する国内法制及び政策と本条約に含まれる障害の人権モデルとの調和の欠如。」となっている。

【参考・引用文献】

  • 外務省ウェブサイト
  • 特定非営利活動法人日本障害者協議会ウェブサイト
  • NHK解説委員室「障害者権利条約 国連勧告で問われる障害者施策」(NHKウェブサイト、2022.9.30)
  • REDDYウェブサイト
  • テレジア・アグナ―「障害の人権モデル」(公益財団法人日本障害者リハビリテーション協会情報センターウェブサイト)
  • 加納恵子氏「障害者権利条約10周年記念国際シンポジウム@ソウル報告―第6条「障害のある女性と少女の条項」をめぐって―」(『室報 第58号』(関西大学人権問題研究室、2017.3)
  • 「全国水平社綱領・宣言」(京都大学ウェブサイト)