学び!と歴史

学び!と歴史

日本、日本人とは(2)
2014.01.15
学び!と歴史 <Vol.70>
日本、日本人とは(2)
大濱 徹也(おおはま・てつや)

日本理解をめぐる確執

 アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノが来日した時の日本イエズス会は、フランシスコ・ザビエルから30年の伝道成果として、10万人のキリスト者を生むほどに大きな躍進の時を迎えていました。その教線は、南は鹿児島から東は美濃、尾張に及び、長崎、島原、天草、五島、平戸、博多、豊後、山口、京都、高槻、堺、河内、安土等の各地に教会が形成されていました。このような活況を呈して日本伝道の前途は、全日本布教長ポルトガル人フランシスコ・カブラルと都地方長イタリア人オルガンティーノ・ソルドの日本布教をめぐる確執により、閉塞感にとらわれていました。それは、伝道方策の亀裂によるもので、両者の日本人観がもたらしたものです。
 ヴァリニャーノは、カブラルの日本像を否定し、オルガンティーノの日本理解に示唆を受け、日本順応の布教戦略を日本イエズス会の方針としたのです。その方策は、日本人の性格を厳しく問い質し、その心に秘めた「邪悪」さに嫌悪感を語るカブラルの日本像より、ある種心地よいものでした。
 オルガンティーノは、1577年10月のイエズス会総長宛書簡で多数の宣教師がいれば、「10年以内に全日本人はキリスト教徒となるであろう」と、高らかに宣言し、日本人が優秀であることを力説する一方で、その優秀さの底にある道徳観念がもたらす落とし穴に怯えてます。ここには、先に紹介した芥川龍之介が描いた闇に慄きとまどう姿、日本の神々の微笑がもつ危険な誘惑がかたられています。

 この国民は野蛮ではないことを御記憶下さい。なぜなら信仰のことは別として、私達は互いに賢明に見えるが、彼等と比較するとはなはだ賢明に見えるが、彼等と比較するとはなはだ野蛮であると思う。私は真実のところ、毎日、日本人から教えられることを白状する。私には全世界でこれほど天賦の才能を持つ国民はないと思われる。したがって、尊師、願わくは、ヨーロッパで役立たないと思われる人が私達のもとで役立つと想像されること無きように。当地では優鬱な構想や、架空の執着や、予言や奇蹟に耽る僭越な精神はことに不必要なのである。私達に必要なのは、大度と慎重さと、聖なる服従に大いに愛着を感ずる人なのである。
 さらに、私は尊師に、住民ははなはだ不品行で、必要な貞操観念をほとんど評価していないので、危険に満ちていることを御報告申し上げたい。私はこれを同僚を疎んじて申すのではなく、堅固な徳操を獲得するよう激励して申すしだいである。されば彼等は当地に派遣されるならば、天使のごとくあらねばならず、その生活の模範によって、この国民を不貞から貞潔の実践へ連れ戻さねばならぬのである。

カブラルの眼

 カブラルは、オルガンティーノが怯える日本人の「道徳的」に暗く深い闇に対し、その闇にこそ日本人の本質があらわれているのだという認識をもち、そのような日本人への嫌悪感をあらわにした言動でしめしたのです。

 私は日本人ほど傲慢、貪欲、不安定で偽装的な国民を見たことがない。彼等が共同の、そして従順な生活ができるとすれば、それは他になんらの生活手段がない場合においてのみである。ひとたび生計が成立つようになると、たちまち彼等はまるで主人のように振舞うに至る。日本人のもとでは、誰にも胸中を打ち開けず読みとられぬようにすることは、名誉なこと賢明なことと見なされている。彼等は子供の時からそのように奨励され、打ち明けず、偽善的であるように教育されるのである。彼等は土着民であり、彼等には血族的な繋りがあるが、日本におけるヨーロッパ人には、一人の親族があるわけでもない。彼等はラテン語の知識もなしに私達の指示に基づいて異教徒に説教する資格を獲得しているが、これがために我等を見下げたことは一再に留まらない。日本人修道士は、研学を終えてヨーロッパ人と同じ知識を持つようになると、何をするであろうか。日本では、仏僧でさえも20年もその弟子に秘義を明かぬではないか。彼等はひとたび教義を深く知るならば、上長や教師を眼中に置くことなく独立するのである。日本人は悪徳に耽っており、かつまたそのように育てられているので、それから守るためには、主なる神の御恩寵に頼るほかはない。日本で修道会に入って来る者は、通常世間では生計が立たぬ者であり、生計が立つ者が修道士になることは考えられない。

日本人に問われていること

 教義を身につけたら外国人宣教師に対して己を主張するようになるとの指摘は、何も16世紀のイエズス会の問題ではなく、近代化のなかでキリスト教を手に入れた日本人キリスト者の言動にみられたことです。日本のプロテスタント教会がかかげた自給独立教会への強き志向、内村鑑三らの言動には、カブラルが危惧した世界につうじるものが読みとれます。かつ修道会に入るのは生計の立たぬ者との指摘には、明治維新後の社会にあって、宣教師の下で英語を習得して世に出るべく開港場に出入りし、宣教師に生活をみてもらい、その支援でキリスト者となることで海外留学への切符を手にいれようとした「ライスクリスチャン」と揶揄された者につらなる世界がうかがえましょう。
 カブラルが嫌味をあからさまに問いかけ日本像は、日本、日本人の相貌をとらえたもので、ヴァリニャーノやオルガンティーノの陰画にほかなりません。礼儀正しく、忍耐強い日本人像は、喜怒哀楽を秘めて生きる姿に、傲慢、貪欲、不安定で偽装的な国民とみなさたものにほかなりません。このような日本人の相貌は、16世紀の日本像ではなく、現在も日常的にみられる風景ではないでしょうか。
 ここには、日本人が「信義」を重んじる国民であるのかとの問いかけがあるのではないでしょうか。この問いに向き合うには、「偽りの教義」、正しい信仰を身につけていないがために欺瞞と虚構が満ちており、嘘を平然と語り、陰険に偽り装うことを怪しまない、嘘も方便とみなす世渡りの作法で生きる民、とのヴァリニャーノが指弾した日本人の処世術に対峙し、己の内なる世界を凝視するなかに「日本人」たる我とは何かを思い描くことが求められています。現在、声高に説かれている日本像、「美しい国」「おもてなし」云々で表現されている日本像は、16世紀にイエズス会士が問い質そうとした世界に向き合い、応答しうるだけの内容を提示しているのでしょうか。わたしの眼には、何一つ内容のない、無慚な声に聞こえるのですが。いかがなものでしょうか。