学び!と歴史

学び!と歴史

「愛国心」を自覚した秋
2014.02.24
学び!と歴史 <Vol.73>
「愛国心」を自覚した秋
日本という国のかたち(3)
大濱 徹也(おおはま・てつや)

承前

 「大皇国」日本という言説は、教育勅語に唱和していくなかで、「茅屋の民」を皇室になびく民草たる「臣民」に造型し、時代の危機に対応することで声高に語られ、日本人たる者の心の拠り所とみなされました。日清戦争は、このような日本と日本人であることへの眼を開き、日本国民たる「我」を強く自覚させ、愛国心を覚醒しました。愛国心なるものの最大の教師は戦争です。このことは、現在も眼にすることで、竹島や尖閣諸島の問題を喧伝することで、歴史教科書の在り方を論難し、「日本をたてなおす」「日本を取りもどす」という言説が横行している世間の風潮にみることができます。それだけに「愛国心」なるものが叫ばれたのは何時なのかを知りたいものです。

日清戦争前夜の空気

 日本の暮らしにはシナ―中国文明が生活に色濃く影をおとしていました。寺子屋で習ってきたのは四書五経の世界からの道徳訓であり、公式に書く文字は「漢字」といわれてきたシナの言葉、シナの文章を「漢文」として日本流に読み解く漢文訓読の作法を身につけることが教養人の証です。現在でも「漢文」が国語の授業で教えられ、大学入試の受験科目に入っています。「漢文」は日本のみならず中華文明圏で育った国々にとり、ヨーロッパ世界のラテン語に相当するものにほかなりません。漢籍の素養は武士階級をはじめ知識人の証でした。
 さらに祭りの山車が漢の高祖や楚の項羽などの英雄豪傑で飾られていますように、庶民の世界には水滸伝で語られてきた物語がねざしていました。そのため日本の歴史はシナの物語になぞらえて語り聞かされてきたのです。日本の英雄豪傑は、忠臣楠正成が日本の諸葛孔明とされたように、水滸伝の世界になぞらえて紹介されてきました。日清戦争時に12歳であった生方敏郎(1882-1969)は、上州(群馬県)沼田で生まれ育った日々の暮らしが、家をいろどる屏風や絵皿が「唐人と唐人の遊技図や南京皿」であり、学校で教えられるのは「支那の文字」で、「日本人は当時支那人以上とまでは誰しも自負していなかった。ただその以下でさえなければよい、と考えていた」(『明治大正見聞史』)と、少年期の思いを回想しています。
 日本は圧倒的な中華文明の影響下に国家を形成してきただけに、「大皇国」日本という強烈な自己主張はその劣等感が裏返されたある種の「優越感」の表明と言えるのではないでしょうか。それだけに清国―シナとの戦争は庶民を不安と焦燥にかりたてたのです。
 横浜の芝居小屋では、日本人の妻と別れるシナ人の物語等が上演されると、シナ人に扮した役者を観客が罵倒し、舞台に物を投げるという光景が見られたそうです。そのため舞台の役者が「われわれだって愛国心に富む日本人である」と、客と喧嘩することもあったのです。まさに戦争は日本に広くシナへの憎悪と敵愾心を増幅していきました。

日本国民たる我

 会津藩出身の井深梶之助(1854-1940)は、会津敗北後に藩命で東京に遊学、苦学して横浜でオランダ改革派教会の宣教師のS・ブラウンに出会い、1873年(明治3)に受洗、キリスト者となり、86年に明治学院創立で日本側理事となり、89年に副総理に就任、学院の運営にあたった人物で、日本のキリスト教界を代表した一人です。94年9月に井深は、横浜で開催された女子夏期学校で「社会改良の前途に就いて」なる講演で日清戦争と条約改正が日本の「第二の維新」にあたるものとなし、日清戦争が日本と日本国民にもたらす意義を問いかけました。
 まず「2師団即ち5万内外の帝国軍隊」の「朝鮮出陣」と「帝国10万の兵は支那国に侵入し、北京城を指して進撃」し、海軍が「威海衛、旅順口を衝き、直ちに天津を指して進行するならん」という戦況にふれ、「此の如き戦争は、日本建国以来未曾有の大事件にして、百般に付き其の影響の非常に広大なるべきこと亦論を俟たず。我が陸海軍兵機の精鋭なる、兵士の勇武なる、当局者の熟練なる、此の戦争や必ず我が國の勝利に帰せんこと毫も疑いを容れず。然らば即ち、果して此の大戦争の我が勝利に帰したる暁には、之れより生ずる所の影響は如何あらん。」として、次のように語りかけています。

先ず我が帝国の武力を世界に発揮するは勿論、外交上に於ても、貿易上に於ても、工業上に於ても、大なる影響あるは明白なりと雖も、我が国民の精神上に於ても亦一大変更を来たすや疑いを容れず。先ず第一に国民的精神の発達なりとす。夫れ人は他あるを知りて始めて己あるを知るが如く、国民も亦他国あるを知りて始めて自国あるを知るなり。試みに王政維新前のことを想い見よ。非凡の学者は格別、通常の人は己の生国又は藩あるを知りて、日本国又は日本国民なるものあるを知らざりき。現に余輩の学校に時に日本国民と云う詞を聞きたる覚えなし。只常に耳にしたる所のものは、江戸将軍家、薩摩、長州、土佐、鍋島、尾州、水戸、越前等と云う名称なりき。成る程偶には、日本、唐土、天竺等の語を耳にせざるに非ざれども、実に茫々漠々として雲をつかむ如き考えなりき。実に余は会津藩士たる我なるを知りたれども、日本国民たる我あるを知らざりしと云いて可なり。実に不都合千万成る事にして、今日より想えば殆んど想像に困しむ事なれども、事実此の如くなりし事は、維新前に生長したる人に聞きて知るべし。然るに、今回清国の開戦に関する日本国民の感情は如何。貴賤の差別なく、東西の別なく、四千万人の感情全く一人の如く然り。今にして尚且つ然り。況んや愈々今回の戦争にして我が帝国の大勝利に帰するに於ては、此の国民的精神即ち愛国心の大発達を見るや疑いなし。

 日清戦争は、「帝国の武力を世界に発揮」することで、「日本国民たる我」を自覚させ、愛国心の大発達をうながします。その勝利は、「支那人の傲慢亡状を懲らしむる」もので、「不健全なる漢学即ち支那主義」に加えられた打撃とみなされたのです。まさに戦争は、敵国清を強く意識することで、日本と日本人という意識を研ぎ澄まし、旧藩的な藩(くに)から日本国民へと脱皮させたものにほかなりません。ここに日本は、戦争に勝利していくことで帝国となり、自家中心的な愛国心を肥大化させ、夜郎自大な自画像に陶酔していくこととなります。

 

参考文献

  • 大濱『庶民の見た日清・日露戦争―帝国への道―』刀水書房 2003年
  • 『井深梶之助とその時代』第2巻 明治学院 1970年