学び!と美術

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国際バカロレア教育とバンコク・アート&カルチャー・センター~バンコク調査報告(1)
2020.03.10
学び!と美術 <Vol.91>
国際バカロレア教育とバンコク・アート&カルチャー・センター~バンコク調査報告(1)
奥村 高明(おくむら・たかあき)

 とあるご縁(※1)から「日本人学校が国際バカロレア教育導入を考えている」と伺いました。その経緯や教育資源を調べるために、バンコクを訪問しました(※2)。2回にわたって報告します。

国際バカロレア教育って何?

 国際バカロレア教育(IB:International Baccalaureate)は、1968年にスイス・ジュネーブで設立された国際バカロレア機構(IBO)が実施する教育プログラムです。認定校で学び、最終的に認定証書(ディプロマ)を獲得すれば、そのスコアに応じて、世界中のIBを認めている大学に入学できます。世界的に大変価値の高い資格で、すでに日本国内で76校の学校が認定され、文部科学省も普及・拡大を進めています(※3)
 「IBの使命」を具現化したものが「IBの学習者像」です。「探究する人」「挑戦する人」「信念をもつ人」など国際的な視野をもって活躍できる人材が想定されています。この学習者像を目標に(※4)、統合的で構造的な学習が行われます。高等学校の場合、数学や理科、芸術など6つの教科と、論文や体験学習など3つのコア(課題)をクリアすると、ディプロマ取得のための最終試験が受けられるシステムになっています(※5)

 このプログラムで欠かすことができないのが芸術です。といっても「芸術を学ぶ」というものとは異なります。むしろ芸術を通して、より深い知の構造を獲得しようとするものです。芸術を統合的に用いた教育に関心のある筆者としては興味深いところで(※6)、その可能性を調べるべく、国際バカロレア教育の研究者小池研二先生(横浜国立大学教授)と一緒にタイに向かいました。

美術館に似顔絵屋さん?

 今回の調査では、学校だけでなく国際バカロレア教育にふさわしい教育資源についても調査しました。その一つが、バンコク・アート&カルチャー・センターです。日本人学校関係者から勧められたまま(※7)、理由もよくわからず訪問しましたが、行ってみると「なるほど!」という施設でした。
 まず1階は一般的なイベント会場、2-4階には大小のギャラリースペース、ショップや飲食店などの商業スペース、そして5階以上が企画展等の会場です。ニューヨークのグッゲンハイム美術館のようならせん状の建築で、なかなかおしゃれです。
 「どんな作品が見られるのかな」「タイの美術状況はどうなのだろう」などと思って入ったとたん、面喰いました。2階に上がって真っ先に出会ったのは「似顔絵屋さん」なのです。「え……」日本でも馴染みの、観光地やお祭りでよく見られる、あの「似顔絵屋さん」です(※8)。そのほか、手作りの小物売り、お土産店、怪しいフィギュア屋さんなど屋台的な商店が、エスカレータの両側の通路に並んでいるのです。ここ、一応、美術館ですよね……。
 気を取り直してギャラリーに進むと、2階から4階は市民や学生の作品などが展示されています。一般の方が多く出品している印象ですが、アカデミックな経験のある作家さんの展示もありました。
 5階以上は企画展示室です。訪問時はLGBTについての現代作家展が行われていました。水墨画のような伝統的な手法、現代的なインスタレーションなど様々な表現方法の作品が展示され、中にはショッキングな表現でタイ社会におけるジェンダーの在り方を問い直そうとする作品もありました。「敬虔な仏教徒の多いタイで大丈夫?」と心配するほど、挑戦的な展覧会だと思いました(※9)
 つまり、階を上がるにつれて「市井のアート」からいわゆる「芸術」までが一堂に観覧できるのです。このような方法が世界的に見られないわけではありませんが、少なくとも日本で「似顔絵屋さん」を常設する美術館やアートセンターを知りません。なんとも不思議な「?」が残るバンコク・アート&カルチャー・センターでした。

バンコク・アート&カルチャー・センターから生まれる「問い」

 バンコク・アート&カルチャー・センターを教育資源として活用するという側面から考えてみましょう。路地のアートから、市民の文化活動、さらに芸術まで、同時に観覧できる施設から、どのような「学習の問い」をつくれるでしょうか(※10)

  • 私たちは、バンコク・アート&カルチャー・センターで、どれが芸術で、どれが芸術でないと判断しているのだろうか。
  • 倫理的に批判されるかもしれない作品を芸術だと見なし、公的資金を投入しているとしたら、その根拠は何だろうか。
  • きわどい主張をしたり、見る人に衝撃を与えたりするのは芸術といえるのか。
  • 個人の好みや感情、思想などだけで芸術は成立するのだろうか。etc.

 おそらく、子どもたちは次のような議論するでしょう。

  • なぜ我々は似顔絵を芸術として認めないのか。私たちが作品を芸術として判断する根拠は何か。
  • 似顔絵がアートでないとすれば、その理由は価格か、テクニックか、作家のメッセージか、専門家の言説か、あるいは私たちの感情や感覚か。
  • 公的資金を用いて購入したり、支援したりする作品とそうでない作品の境目は何か。
  • 人にショックを与えることで反応を引き出し、社会的メッセージを広めるのは芸術家にだけ許された特権だろうか。
  • 芸術は「個人的な知識」だけで成立しているわけではない。文化、歴史、信仰など「共有された知識」と切り離して理解することはできない。etc.

 公立美術館においては、いまだに児童作品や市民の作品展示を拒絶する‟敷居の高い“美術館があります。一方で、美術館に遠足で訪れているだけという例も多く見られます。どちらも、もったいないと思います。「芸術を知る」「美術に親しむ」などの範囲で終わり、美術が成り立つ構造自体を問い直すような資質を獲得するには至っていないからです。
 国際バカロレアディプロマ資格取得プログラム(IBDP)の中核的な特徴の一つに「知の理論(TOK:Theory of Knowledge)」があります。あえて簡単に述べれば「何かを知っている」ということよりも、「自分が知っている」ことの根拠を確かめる学習です。
 バンコク・アート&カルチャー・センターで感じたのは「美術館自体を学習の資源にすることで、自分が知っている(と思っている)ことを問い直すような根源的な問いに向かう学習が組織できるかもしれない。」ということでした。おそらく、バンコク日本人学校の関係者は、それをねらってこの施設を調査対象として提案したのでしょう。国際バカロレア教育導入の理由の一端が見えたような気がしました。
 次回は日本人学校の有志が学習した「知の理論(TOK:Theory of Knowledge)」ついて検討します。

※1:青森県上北地方小学校教育研究会図画工作科部会に所属し、「人とのつながりをつくりだす版画教育 」で第50回教育美術・佐武賞を受賞した執筆者の一人野坂佳孝先生(現在泰日協会学校 第1小学部 教頭)です。
※2:泰日協会学校(バンコク日本人学校)は、1926年創立の盤谷日本尋常小学校を前身とするタイ国認可の私立学校(日本国文部科学省在外教育施設認定校)。公立学校よりも予算や教育内容の自由度が高く、海外派遣された家庭の子どもたちが数多く通っています。 https://www.tjas.ac.th/
※3:文部科学省IB教育推進コンソーシアム https://ibconsortium.mext.go.jp/
現在、候補校等を含むと国内IB認定校等数(2019年11月11日時点)150校。多くは高等学校やインターナショナルスクールですが、小中学校や幼稚園もあります。
※4:10の学習者像 https://ibconsortium.mext.go.jp/wp-content/uploads/2019/04/IB学習者像.pdf
※5:センター試験のような選択問題ではなく、小論文のような記述式の問題です。
※6:『学び!と美術』では、これまでも大分県立美術館や三ケ島中学校の実践を取り上げてきました。
学び!と美術<Vol.65>『美術を核にした教育プログラム』(2018年1月)
学び!と美術<Vol.66>『「朝鑑賞」で学校改革』(2018年2月)
※7:日本人学校ディレクターのオーラスム・トリーアモーンラット女史に推薦してもらいました。ディレクターについては、https://www.tjas.ac.th/bkkgaiyo
※8:「似顔絵屋さん」、近年は集合施設や商店街などでも散見されるようになってきました。
※9:9階はメインの企画展やイベントが行われる場所ですが、訪問した日はクローズでした。
※10:問いと答えの例は下記文献を参考にしています。Sara Santrampurwala他4名著、田原誠・森岡明美訳『Theory of Knowledge 知の理論 スキルと実践』オックスフォード大学出版局(2016) 及び Wendy Hedorm Susan Jesudason著、Z会編集部訳『TOK(知の理論)を解読する ~教科を超えた知識の探究~』Z会(2016)