学び!と美術

学び!と美術

対談 『13歳からのアート思考』(後編)
2022.11.10
学び!と美術 <Vol.123>
対談 『13歳からのアート思考』(後編)
奥村 高明(おくむら・たかあき)

末永幸歩先生と筆者

 前編では出版の背景や子どもとアートの関係について語っていただきました。後編では、本書で最も伝えたかったこと、アートは世界の見方であり、生きる上での基盤だということについて伺っていきたいと思います。

美術の授業という宝

筆者:私は図画工作や美術の中には、ビジネスや医療など多くの場面で役に立つようなたくさんのお宝があると思います。もちろん、薬として役立つ草花が、そのために咲いているわけではないように、アートはアートであることが大切です(※1)。でも、美術を美術教育の中だけで消化するのはもったいないと感じています。ですから、先生のご著書が18万部を超えて多くの人々に届いた=美術で大切にされていることが広がったように感じて、すごくうれしかったんです。それが読後の第一印象です。
末永:ありがとうございます。執筆しながら、美術が好きな人や教育者だけでなく、一般の人たちにも届けたいとずっと意識していました。
 でも、それは当たり前のことです。なぜなら、そもそも授業の相手である生徒は「美術が好きな人や教育者だけ」ではないですよね。美術が嫌いな子もいるし、縁のない子もいます。授業に取り組もうとせず反発しちゃうような子もいます。そんな子どもたちが、美術の授業を通して自分なりのものの見方で立ち止まって考えたり、アートって面白いと思ったりしてくれる喜びを経験してきたので、本書は美術が好きな人々ではなく、普通の人々を対象に、そこで美術を語り合いたいと思って書きました。
筆者:それが、巷に出回っている本と違う点でしょうね。今、本屋にいくと「~のつくり方」「~の教科書」など、ずらりとノウハウ本が平積みされている。知人はノウハウ本全盛の傾向について『多くは因果律で止まっています。ヘタをすると「成功した自分(著者)の真似をすればいい」で終わっています。』(※2)と指摘しています。
 一方、この本は『13歳からのアート思考』と銘打ってはいますが、アート思考の方法を示すというよりも、読者とアートを通して対話するというか、アートを経験するというか、読者が授業に参加しているような感じがします。しかも扱われているのは、特別な話ではなくて、普通の授業でも取り扱われている内容です。固定的なノウハウや「これが新しい考え方だ!」のような思想を押しつけているわけでもありません。
末永:そこはとても意識していました。まず、ハウツーにならないようにしたい、やっぱりハウツーをいくら教えたところで、それを使える場面ってすごく限られているじゃないですか。でも自分で考えていく力があれば、いろいろな場面で応用することができます。本の中に全ての答えがあるとか、ハウツーみたいなものをつめこんで伝えるとかではなく、本をきっかけにして、読む人の中で答えが構築されたり、考えが生まれていったりするといいなと思っていました。
 だって、私自身、子どもたちが「美術の授業では何を言っても認められるんだ」とか「こんなことをしても先生ダメって言わないんだ」とか言いながら、自分なりの探求をしていく姿を観るのがすごく好きだったんです。
筆者:よく分かります。私たちは授業で「ノウハウだけ」を教えているわけではないですよね。多くの人は「かけ算九九」や「面積の公式」などのノウハウしか覚えていないのでしょうけれど、それを学んでいる場面では、九九のつくり方とか、面積の求め方など、みんなで「ああでもない、こうでもない」と考え合っています。そこに身を投じているというか、一緒に考え合っているのが先生という仕事ですよね。
末永:はい。ですから、普段の授業と同じように難しい言葉は使いませんでした。子どもたちをイメージしながら書いていくと、「これくらい知っているだろう」「これを知らないと読み進められない」みたいな前提は成り立たないですね。なので、フォーヴィスムやキュビスムなど、美術の専門用語を一切出していません。もちろんキュビスムという言葉は、美術の人々には簡単な知識で、美術史を理解するには必要な概念かもしれませんが、そんな簡単な言葉ひとつでも子どもは躓くというか、微妙なモヤモヤを抱えてしまいます。大人も同じで、言葉の意味がはっきり分からないと、それ以降の対話が入ってこなくなってしまいます。それよりも「読みながら考える」ことを大切にしたのです。
筆者:私だけの感覚かもしれませんが、上から目線で書かれた本ではないと感じました。というのは今、いわゆる「おこぼれを授ける」感が大変気になっているからです。
 美術や美術教育が世間一般的にブームになって久しく、そのきっかけをつくっておいてこう言うのも何ですが、ブームに乗ったほとんどの本は「あなたたち、知らないでしょうけど、美術はすばらしくて、美術館はアートの殿堂で……」というような大上段から始まって、その場所から「こんなすばらしい鑑賞法があって」「アートにこんな効果があって」というように教えや教義を授けている、そんな感じがするんです。
 でも、私の知っているビジネスパーソンやNPOなど様々な人は、そのようなアプローチに対して「つまんない」と言うんです。市井の人々は侮れないというか、美術館や美術教育の問題点を見抜いていると思います。
 でも、末永先生の本はピカソやデュシャン、ポロックなど、美術の授業で取り扱う宝物を高邁なものとして押しつけるのではなくて、一緒に楽しませてくれました。言い換えると、美術の授業を18万もの人々に実現してくれた。「美術の授業が本になった!」という喜びを感じたのです。
末永:そうだとしたらうれしいです。

アートは生きる基盤?

末永:「アートって何だろう」と考えたとき、それは目に見える静止した作品だけではないですよね。アーティストがどんなふうに世界を見つめたのか、そこからどう模索して自分の世界をつくったのか、そうしてできあがった作品がどのような新たな問いを社会にもたらすのか……と考えると、アートを「美術」や「学校の美術や図画工作の時間」だけに押し込めてはもったいないなと思います。
 これまでいろいろな授業やワークショップをしたり、本や論説を書いたりしてきたんですけど、そこで触れ合った人々は、自分の生活の中にアートを展開させたり、そこで何かを感じたり、何かの折にアートな考え方をあてはめたり、置き換えたりしてくれているのかなと思います。そうだとしたら、アートは全ての学びの基盤というか、生きる上の基盤になるものなんじゃないかなと思います。
 最近、総合的な探求の時間や教科横断の授業、あるいは集会のような場で話す機会も多くて、それって、読者が、アート=美術ではなく、生きる上での基盤と考えてくれたからじゃないかなと思います。
筆者:本書を18万超の人々が手に取ったのは、そこなんでしょうね。美術の授業は、世界を自分なりに広げていくこと、友達と一緒に世界を耕していくことで、人間はそれを3万年やってきた。その一番の根っこの部分がアートだとすれば、その地点で子どもとアーティストはつながるのでしょう。
 私はそれを「生存価」と呼んでいますが(※3)、『13歳からのアート思考』は、アート思考の解説本ではなく、アーティストが苦しんだり楽しんだりしたことが追体験できるような、縁を深める「生存価」の本なのかもしれませんね。
末永:固定的なものの見方や学校で教えられていた正解などは、別の角度から観たら全く異なる世界が見えたり、別の答えが引き出したりできると思います。アートでもその点が大事だとすれば、作品を正しく見る方法や上手に絵を描ける方法などを学ぶことだけが美術の授業の役割ではないように思います。
 自分のものの見方で世界を見つめなおすとか、今あるものを疑ってみてもいいんだよとか、自分が違和感を覚えたときに立ち止まって考えようよとか、そんな授業であれば、それは日常生活や仕事に役に立つのではないでしょうか。
 例えば、私はよく「新聞紙で何ができる?」というワークショップをやっています。新聞紙を一束渡して、造形遊びみたいにして遊ぶのですが、まるめたり、ちぎったりはもちろん、野球のバットをつくる人がいるかと思うと、新聞紙の文字の部分を切り抜いて言葉を並べる人もいます。ただひたすらただ高く積むなどの行為を追う人もいます。
 興味深いのは、作業後にみんなで対話するときのこと。「この作品をこういう構図や意図でつくりました」と話す人はまずいません。作品についての言及はほとんどなくて、「はじめに新聞紙に触ったときにこんな感じがして、こんなことをしてみた」とか「他の人を見てこう思い付いた」とか、作業のプロセスや、自分の感じたこと、考えたことなどを自然と話すんですよね。
 このワークショップで大事にしているのは、実は作品の出来栄えじゃなくて、制作過程において何を考えていたのか、どんな模索をしたのか、それによって自分がどう変化したのか、といったポイントです。
筆者:それ、よく分かります。私もワークショップで、ある美術作品を見せて、次にモールと色紙を渡して「何かつくってください」という鑑賞のエクササイズをやるんですが、できた後に話し合いをしてもらうと、作品だけの説明をする人は誰もいないですね。やっぱり「こうしてたら、こうなって」「このとき、こんなことを感じて」など、ちゃんとプロセスや自分の感覚、考え方などを語ります(※4)

末永:『13歳からのアート思考』 出版後に、ビジネスの世界の人たちから「変化が大きくて、先行きの見通しが立たない今の時代において、新たな価値を生むアートの授業をしてほしい」という声をたくさんいただきました。もともとビジネスに役立てる目的を第一に書き始めたわけではないので、ちょっと迷いはありましたけど、私がこの本で伝えたかったことは、いろんな人がいろんなふうに解釈してくれることでしたから、もし、私の本でいろいろ学びが深まったり、いい仕事ができるようになったりしたのなら、出版した意味はあったかなと思います。出版を通して私自身も変化しましたし、私は変わらず私が志すアートの授業を展開していければいいので……(笑)。
筆者:ある中央省庁の幹部が「日本という国はもう人口も増えないし、経済もGDPもあがらない。このままだとおそらく『かつて栄えた国、日本』になってしまう。これから日本がやっていかなきゃいけないのはアートだ」と熱く語っていました。おそらく、今後アートがますます重要になっていくことだけは確かなのでしょう。末永先生にはその担い手のお一人としてますますご活躍ください。本日はありがとうございました。
末永:ありがとうございました。

末永 幸歩(すえなが・ゆきほ)
武蔵野美術大学造形学部卒業、東京学芸大学大学院教育学研究科(美術教育)修了。
東京学芸大学個人研究員、九州大学大学院芸術工学府講師、浦和大学こども学部講師。
「絵を上手に描く」「美術史を丸暗記する」といった従来の美術の授業に疑問を感じ、アートを通して、自分なりのものの見方で「自分だけの答え」をつくることに力点を置いた探究型の授業を中学校や高等学校で実践してきた経験を持つ。
現在は、全国の教育機関や企業等で、年間100回を超えるワークショップや講演を行う。
日経STEAMアドバイザー、Eテレ「ノージーのレッツ!ひらめき工房」監修、ニュース共有サービス「NewsPicks」プロピッカーなど兼任。様々な企業や団体とアートや教育に関する事業共創に力を注いでいる。
著書に18万部を超えるベストセラーとなった『13歳からのアート思考』(ダイヤモンド社)、動画コンテンツに『大人こそ受けたい「アート思考」の授業 ─瀬戸内海に浮かぶアートの島・直島で3つの力を磨く─』(Udemy)などがある。

※1:学び!と美術<Vol.114>『美術鑑賞の現在地 後編(2010~) 第2回 ビジネスと美術鑑賞(1)』(2022)
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art114/
※2:奥村高明・有元典文・阿部慶賀編著「コミュニティ・オブ・クリエイティビティ ひらめきの生まれるところ」日本文教出版(2022)p.221
※3:生存価とは、「種」の生き残りやすさに寄与する性質のこと。言い換えれば、「飯を喰うのには不要」だけど「生きるのには必要」なもの。例えば脂肪には「生存価」があり、脂肪の形でエネルギーを蓄えられた方が飢餓に強い。言葉を交わし合えれば、生きるために必要な共同作業の精度が上がるので、言語にも「生存価」がある。同様に「歌やお絵かきにも「生存価」があるのではという考え方。学び!と美術<Vol.98>『対談:生存価としての図画工作・美術』(2020)
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art098/
※4:科学研究費補助金基盤研究(B)平成24-26年度「科研費美術館の所蔵作品を活用した鑑賞教育プログラムの開発」(研究代表者:一條彰子)の調査におけるナショナル・ギャラリーで受講したワークショップをもとにしています。