学び!と美術

学び!と美術

触ることから始まる
2023.01.10
学び!と美術 <Vol.125>
触ることから始まる
群馬大学共同教育学部 教授 林耕史

 昨年12月に前橋で開催された「見えない人、見えにくい人、見える人、すべての人のー感じる彫刻展ー ミルコト ミエナイコト サワルコト」の企画に関わり、ご自身でも作品を出品している林耕史先生。展覧会で感じたこと、図画工作・美術での「触れる」ことの意味について、お話を伺いました。

誰もが一緒に楽しめるものを

 今回の展覧会は、ご病気で視力を失った彫刻家の三輪途道(みわみちよ)さんが中心となり、視覚に障害がある方もない方も一緒に楽しめるような美術展を提案したいというところから始まりました。彫刻は「触れて楽しむ」ことがしやすいですし、私自身、これまで触れてもらうことを前提として作品をつくってきたというのも大きな理由です。飾ってあるものを見て楽しんでもらうというより、触れる・座るなど、生活とともにあって楽しんでもらえるような「ともにある」作品を目指しています。

意外と「触って」もらえない

 会期中に印象に残ったのは、意外と触れてもらえなかったことです。主旨を知っていて来場した人も、小さい子がどんどん触るようには触っていかない。触ること自体にハードルがあるというような印象です。
 それを見て考えたのは、触ることに「始まる」という感覚があるかないかということでした。晴眼者の場合は視覚情報が大きいため、触れることは確認と分析の作業になってしまうことが多いのではないでしょうか。あらかじめ答えを想定していて、確かめるために触れているような……。一方、視覚に障害がある人は、触れることによって「始まる」という感覚があるように感じます。予想できる答えを確かめるのではなく、触れた指先から作品鑑賞が始まっていくという感覚です。
 もちろん、確認するために触るということが悪いのではないですし、そういう鑑賞もあってよいと思います。でも、作品を触ることから広がる世界があるのに、その手前で止まってしまう、或いは、それをバイパスして理解へと飛んでしまうのはもったいないと思いました。

 触れて「わかる」感覚は、視覚だけで「わかったつもり」になるよりも、一段階上の理解になるような気がします。細長いものを触った時に「どこまで続くんだろう」とか、「意外に細いな」などの、感覚を伴う経験ですね。子どもを見ると、ごく自然に行っていることですが、大人はなかなかそうならない。触れることを「面倒くさがらない」「忌避しない」という子どもの姿勢を、私たち大人も残しておかなくてはならないのではないかと思います。

触ることで自分事に

 もう一つ、触ることについて考えたことがあります。ただ見ている時は、鑑賞する彫刻が「あれ」「それ」という感覚ですが、触れた瞬間に「これ」になる感覚です。もっと言うと、三人称のものとして彫刻を見ている状態から、触れたり撫でたり座ったりした瞬間に、「わたしと彫刻(あなた)」という実感を伴った二人称になるんですね。他人事だったものが、自分事になるということです。最初は傍観者的に「深く切り込みが彫ってあるな」って思っているけど、触れることで「切り込みに手がどんどん入っていくな」って感じますよね。相手はモノだけど、「わたし」と「あなた」の関係になっていく。鑑賞している「わたし」が本当に当事者になる、ということです。物事を感じ合うとか考え合うとか、協同(または協働)で何かしようという時に「触れる」がどこかに入っていないと、本当の当事者同士にはなれないのかもしれません。

「触る」が理解を支えている

 子どもは、具体物に触れたり撫でたり、時にはなめたりしながら確かめる行為を通して「これはこういうもの」という知識を獲得していきます。そして知識を積み重ねることによって、記号や言語でものを表現できるようになっていく。子どもがしていることだからか、触れること=プリミティブな低次元のもので、記号や言語での表現が高次元であると誤解しやすいんですね。

 でも「触れる」ような実感を伴うことの上に記号化や言語化が乗っかっていないと、それ自体がふわふわで宙ぶらりんなものになってしまう。実際に、使ったり座ったりすることで、つまり、触れる・接触することで初めて価値の全体を知ることができるものが、社会の中には結構たくさんありますよね。でも私たちは言葉や見た目といった、ある意味記号化・データ化されたものだけで理解したと安心しがちです。子どもたちは、低次元だから触っているわけではなく、全ての理解のために必要があるから触っているんです。

図画工作で「触る」ことの意味

 図画工作では、知識、〔共通事項〕として「形や色などの造形的な特長を捉える」と示されています。これを「形や色」といった視覚的なものだけで考えると、ただ情報として伝達するものになりかねません。でも、「など」には「触った感じ」や「材質感」が含まれています。何より知識は「感覚や行為を通して」捉えるものであると書かれています。そうした、実感を伴うものであることをしっかりと押さえておくことで、図工における「知識」がどういうものなのかが見えてくるように思います。見ることや言語化はもちろん大切ですが、「触る」ことが図工の中で位置づけられている意味を、そして「触る」ことが「つくる」や「表現」につながるという、他の教科にはない図工・美術がもつ大きな意義を、もう一度立ち戻って考えたいですね。

 現代は特に「言語で理解する」「見てわかる」を「わかる・理解する」ことだと捉え、それが「できる」につながると考える風潮が強くなっているように思います。そんな時代だからこそ、子どもたちには「触る」経験をさせてあげたいし、それによって全体を感覚的に捉えることを価値づけてあげたい。「触る」ことがすべての感覚の基盤であり通奏低音になっているという体感・実感を伴う経験や機会を、もっと増やしてあげてほしいなと思います。

林 耕史(はやし・こうし)
群馬大学共同教育学部教授・国画会会員・彫刻家・日本文教出版 令和2年度『図画工作』教科書代表著者。
国展、グループ展出品の他、個展多数。中之条ビエンナーレには2011年から連続して出品。その作品は現在も継続展示されている。「集合体の形態で構成する彫刻による『場』の生成」が目下の研究課題。