学び!と歴史

学び!と歴史

「国語は力」という思想
2015.06.25
学び!と歴史 <Vol.89>
「国語は力」という思想
大濱 徹也(おおはま・てつや)

承前

 上田万年は、日清戦争の勝利によってアジアの覇者たる道を歩む日本国家に相応し国語の確立をめざし、時に応じて認めた論稿を『国語のため』(明治36年)として刊行します。その思いは、巻頭頁に記された「国語は帝室の藩屏なり」「国語は国民の慈母なり」「幾度か思ひかへして君かために なからふる身と人はしらすや」なる世界にこめられています。
 日本の国語学は、上田の志を実現することを使命となし、強きナショナリズムを担う学問であることを宿命として育まれてきた学問です。この宿命は、日露戦争後の日本が世界帝国への道を歩むなかで強く自覚され、「日本語」をも国語の枠組みに溶解させることともなりました。このような国語とは何なのでしょうか。

国語が求められたこと

 明治政府の悲願は、幕末に結ばれた不平等条約―外国人に領事裁判権・治外法権を認めた法権喪失と関税自主権がないこと―を改正し、名実ともに国家の独立を確立することでした。ここに日本は、日清戦争前夜の1894年7月、日英通商航海条約を調印、法権を回復し、99年の条約発効時に外国人居留地を廃止し、内地雑居を認めることとなります。内地雑居は、資金力のある外国人に日本の土地が買収され、国土が侵害される等々、強い反対運動を抑えて実現したものです。ここに日本は広く世界に開放されます。
 上田万年は、このような開放政策がはじまった状況をふまえ、20世紀前夜の1900年に「内地雑居後に於ける語学問題」を稿し、国語がおかれている状況を厳しく問い質します。それは、日本にとり、「国語は一方にては未来の国運を上進せしむる足り、一方にては外来の諸国民、或は新に帰化する諸外国を、能く日本化するに足る、思想界の媒介物なりと信ずる。」「東西文明の融化を、我国が決行し得べしと信ずるか」と問い、このような課題を担いうる国語の準備がなされないまま内地雑居を迎えている現在、「厳格な意味」でいうところの国語がない現況を論じたものです。ここに国語を確立するには、「一日も早く東京語を標準語とし、此言語を厳格なる意味にていふ国語とし、これが文法を作り、これが普通辞書を編み、広く全国到る処の小学校にて使用せしめ、之を以て同時に読み・書き・話し・聞き・する際の唯一機関たらしめよ」と、小学校における国語教育の充実が急務だと力説しております。
 さらに上田は、「国民教育と国語教育」で、「日本の国民としては、義務として読書(よみかき)をしなければならぬ」と、国民教育を担うのが国語教育の課題だと位置づけます。この国語教育は、「立憲思想」「実業思想」「海国思想」「科学思想」から文学美術思想宗教等を教材とすることで、国民教育に資することが可能となるのだと。このように国語教育の確立は、世界帝国をめざす日本にとり、「自国の国民を養成するためばかりでなく、一歩進んでは日本の言葉を亜細亜大陸に弘めて行く上に大いに関連して居る」ものとみなされます。そのためは、「立憲国国民」の言語として恥かしからぬ立派な国語を早く作り出すようにせねばなりません。まさに「国語読本」は、国民教育の器たるに相応しく、立憲政治から思想宗教等々に及ぶことがらを教材としております。この思いこそは、日露戦争の勝利をもとに世界の大帝国日本が雄飛していくなかで、「国語の力」という雄叫びとなったものにほかなりません。

国民の魂の宿る器

 「国語の力」は、国定教科書の第4期の小学国語読本巻9(1937年)の第28課に登場し、第5期初等科国語巻8(1943年)の第20課となり、国語に課された精神を問い語ったものです。そこには、上田万年が思い描いた世界、日本国民の国語とは何かが提示されています。

  ねんねんころりよ、おころりよ、 ぼうやは好い子だ、ねんねしな。
 誰でも、幼い時、母や祖母にだかれて、かうした歌を聞きながら、快いゆめ路にはいつたことを思ひ出すであらう。此のやさしい歌に歌はれてゐる言葉こそ、我がなつかし国語である。
  君が代は千代に八千代にさざれ石の いはをとなりてこけのむすまで
 此の国歌を奉唱する時、我々日本人は、思はず襟を正して、栄えます我が皇室を心から祈り奉る。此の国歌に歌はれてゐる言葉も、また我が尊い国語に外ならない。
 我々が、毎日話したり、聞いたり、読んだり、書いたりする言葉が、我々の国語である。我々は、一日たりとも、国語の力をかりずに生活する日はない。我々は、国語によつて話したり、考へたり、物事を学んだりして、日本人となるのである。国語こそは、まことに我々を育て、我々を教へてくれる大恩人なのである。
 此のやうに大切な国語であるのに、ともすれば国語の恩をわきまへず、中には国語といふことさへも考へない人がある。しかし、一度外国の地を踏んで、言葉の通じない所へ行くと、誰でも国語のありがたさをしみじみと感ずる。かういふ所で、たまたまなつかしい日本語を聞くと、まるで地獄で仏にあつた心地がし、愛国の心が泉のやうにわき起るのを感ずるのである。アメリカ合衆国や、ブラジル等に住んでゐる日本人は、日本語学校を建てて、自分の子供たちに国語を教へてゐる。日本人は、日本語によつて教育されなければばらないからである。
 我が国は、神代このかた万世一系の天皇をいただき、世界にたぐひなき国体を成して、今日に進んで来たのであるが、我が国語もまた、国初以来継続して現在に及んでゐる。だから、我が国語には、祖先以来の感情・精神がとけこんでをり、さうして、それがまた今日の我々を結び附けて、国民として一身一体のやうにならしめてゐるのである。若し国語の力によらなかつたら、我々の心は、どんなにばらばらになることであらう。してみると、一旦緩急ある時、国をあげて国難におもむくのも、皇国のよろこびに、国をあげて万歳を唱へるのも、一つには国語の力があづかつてゐるといはなければならない。
 国語は、かういふ風に、国家・国民と離すことのできないものである。国語を忘れた国民は、国民でないとさへいはれてゐる。
 国語を尊べ。国語を愛せよ。国語こそは、国民の魂の宿る所である

 この「国語の力」が説き聞かせた世界は、1945年の敗戦で「我が国は、神代このかた万世一系の天皇をいただき、世界にたぐひなき国体を成して、今日に進んで来たのであるが、」云々の文章を墨で塗りつぶしますが、末尾の「国語を尊べ。国語を愛せよ。国語こそは、国民の魂の宿る所である」がそのままです。いわば上田万年が国語に託した思想は現在も生き続けております。日本人の精神構造は、敗戦に向きあうこともなく、維新の復古革命が造形した精神の在りかたから、一歩も抜け出していないのではないでしょうか。昨今、世間で聞く「美しい国」という言説はこのような「国語の力」が説き聞かせてきた世界に通じるものではないでしょうか。それだけに、「戦後70年」という現在、敗戦の時に想い致し、己の足下を問い質したいものです。