学び!と歴史

学び!と歴史

兵隊を育む教育
2015.07.30
学び!と歴史 <Vol.90>
兵隊を育む教育
―天皇の御民はどのようにして造形されたか―
大濱 徹也(おおはま・てつや)

若林虎三郎編『小学読本』第二(明治17年)第27課

 明治維新で誕生した日本は、吉田松陰らの幕末志士が欧米列強による侵略、日本が植民地にされるのではないかという危機感を共有することで、列強に追いつくために日本を天皇の下に一元的に統治する国家の形成をめざしました。国内の一元的統治は、列島にある地域的な固有の言語、方言とよばれた言葉を列島共有の「国語」に造型するとともに、天皇が統率する軍隊によって推進されます。ここに日本列島の住民は、地域的な偏差をこえて、日本国の国民である前に、天皇の民、臣民とされ、天皇の軍隊を担う兵隊こそが良き臣民、国民であるとみなされ、「良兵良民」となるように教育されました。この「良兵良民」をめざす教育はどのようなものだったのでしょうか。

行進する小学生

 1890年8月、島根県の松江中学に赴任したL、ハーン、後に日本に帰化した小泉八雲は、松江城を散歩の途次、女教師の先導で歌いながら行進する小学生の一団に出会い、その姿が松江の初印象として心に刻まれたと記しています。その時の歌は楠正成です。
 この行進曲は『小学生徒運動唱歌』(1889年 有川貞清 京都 福井宝正堂)の楠公に関するものです。『小学生徒運動唱歌』は、世間に流行する俚歌童謡が「鄙猥」「批毀軟弱」か「粗暴」なもので、「一として純乎たる児童天稟の美徳」を害うものばかりだとし、これを矯正すべく、「高尚優美の気風を喚起せしむべき運動歌活発勇壮の志気を振興せしむべき軍歌若干を選択編纂し以て児童をして運動遊技の間に之を和唱せしめ識らず知らず児童の悪習卑風を矯正するの材料に充て」、「教育の一助」とすべく編集されたものです。そこに収められた作品は、「日本魂の歌」「忠孝の歌」「武士の歌」「体操の歌」「遊戯の歌」「競漕の歌」「勧学の歌」「英雄の歌」「花月の歌」「元寇襲来の歌」「国体の歌」「益荒男の歌」「楠公遺訓の歌」「小楠公の歌」「軍歌」「楠公父子訣別の歌」「王政復古の歌」「兵士の歌」「小楠公決死の歌」等々で、楠公楠正成を主題としたものを多くみることができます。いわば楠公の神話は、明治維新の精神的な拠り所であっただけに、新国家が求める天皇への忠誠心、愛国の至上を言挙げする物語の原点にある世界として説かれたのです(Vol.3「楠正成像に読みとる時代精神」ico_link参照)。まさに日本の子どもは、松江の小学生が「楠公」を歌いながら行進しましたように、天皇の忠臣として生きることを幼き日よりすりこまれたのです。「楠公遺訓の歌」は

建武の昔正成は 肌の守りを取出し 是は一歳都攻ありし時 下し給ひし綸旨なり 之を汝に譲るなり 我兎に角になるならば 世は尊氏の世となりて 叡慮を悩まし奉らんは 鏡にうけて見る如し さは去りながら正行よ 父の子なれば流石にも 忠義の道はかねて知る 弓はり月の影暗く 家名を汚すことなかれ打ち漏されし郎等を あはれみ扶助し隠家の 吉野の山の奥ふかく 月の桂は漣や 流れも清き菊水の 旗を再び翻がへし 敵を千里に退けて 叡慮を慰め奉れ 嗚呼叡慮を安んじ奉れ

と説き聞かせ、次の「小楠公の歌」が「嗚呼正成よ正成よ 公の逝去のこのかたは 黒雲四方にふさがりて 月日も為に光なく 悪魔は天下を横行し 下を虐げ上をさえ あなどり果て上とせず」と、正成亡き世の暗黒を歌い、正行が「大君の御為に」「菊水の旗」を揚げ、「雲霞の如き大軍を ものともせずに斬まくり 君の方をば枕して 討死せしはいさぎよく 勇しかりける次第なり 都も遠き村里の 女わらべに至るまで 忠臣孝子の鑑ぞと 誉むる其名は香しく 天地と共に伝はらん 天地と共に伝はらん」と、楠公父子の忠誠心を讃えます。
 ここに歌われた楠公父子の物語は、後に落合直文が「櫻井の訣別」「敵軍襲来」「湊川の奮戦」からなる「楠公の歌」となし、「青葉茂げれる櫻井の 里のわたりの夕まぐれ」とうたいだす「櫻井の訣別」が小学唱歌として、人口に膾炙し、国民の心に埋め込まれた記憶の根となります。

小学校は兵士の訓育場

 このような小学校教育を担う教師は、1889年1月の徴兵令改正で、小学校の教師となる師範学校卒業者に6カ月短期現役制(11月より6週間現役制)の特典を付与し、軍隊への体験入学をふまえ、小学生徒に天皇を「頭首」(軍人勅諭)とする天皇の軍隊の良き兵隊となることこそが良き国民の務めだということを教えたのです。国語読本は兵隊さんの世界を説き聞かせ、体育の授業では団体行動の規律を体得させるために行進することを教え込みました。その成果を競う場が学区をこえた地域対抗の連合運動会となります。
 1884年(明治17)の『小学読本 第二』(明治17年 若林虎三郎)第27課は、「汝等ハ操錬スルコトヲ好ムカ、操錬ヲ学ビテ好キ軍人ト為リ他日事アルトキハ死ヲ決シ勇ヲ振ヒテ敵ト戦ヒテ我ガ天皇陛下ノ厚恩ニ報イ奉ラズバアルベカラズ」と問いかけます。小学2年生の教科書としては程度が高いのは教科書編纂者が小学校教育の現場を知らないことによりましょう。教科書には、「櫻井駅訣別」等の楠公父子の忠義の物語が必ず入るとともに、「兵士」(『尋常小学読本 巻之二』第20課 1887年 文部省)、同『巻之三』第25課「招魂社」というように、兵隊として天皇の手足となって死ぬことが忠義の証であると教え込んだのです。
 いわば小学校の国語読本は、大日本帝国憲法公布に先立ち、1888年に文部省の『高等小学読本 巻之一』第1課「吾国」、『巻之四』)第28課「皇国の民」が教材となり、日清戦争の1894年の『尋常小学読書教本 巻之六』第17課が「軍人」、第23課「兵役と租税」というように、兵役の義務を説きましたように、国家の容(かたち)が整えられてくるとともに、「皇国の臣民」たる教育が体系化され、「良兵良民」として歩まされていくこととなります。このようにして造形された日本国民は、日本国憲法下においても、いまだ「天皇の民」に囚われた呪縛から自由でないのではないでしょうか。

 

参考文献