学び!と歴史

学び!と歴史

前田多門の眼
2016.06.03
学び!と歴史 <Vol.97>
前田多門の眼
「主權者」が主權者になるということ 1
大濱 徹也(おおはま・てつや)

「主權者教育」に問われること

 思うに日本の教育は、明治以来というもの、国家の枠組に合わせて人間を精巧な部品として造形すべく営まれ、問い学ぶのではなく、教育という名の命令でした。そこでは、哲学すること、己の頭で考えたことを己の言葉で他者に問い語る作法を身につけることが否定されていました。
 戦後教育の理念を表明した教育基本法は、このような教育の在り方を克服すべく、人格の育成を課題となし、一人ひとりが哲学することを学ぶ教育への道を用意しました。しかし教育基本法の改定が議論されたとき、社会や国家を無視する個人主義の増長をうながしたものとして批判され、占領を引きずる戦後教育の否定を大義とする言説が声高に説かれました。そこでは、改定の賛成・反対派ともに、教育基本法が問いかけようとした原点をみつめ、現在の教育を問い質す議論がなされませんでした。
 社会の協同性が崩壊し、家族のまとまりすら喪失し、児童虐待や育児放棄が日常化していく状況の根源が問い質されることなく、戦後教育の負のみが論難されております。人間が人間であるとは何かに思いいたすことなく、「心の教育」なるものが過剰に期待され、「宗教的情操」の涵養がことさらに説かれております。「宗教的情操」なる言説で「心の教育」の必要性が喧伝されていますが、それは宗教の教祖の言説、教団の教理を知識として知ることなのでしょうか。このような現在の教育の在りかたを確りとみつめ、私の場を確保することが何よりも求められているのではないでしょうか。
 それだけに選挙権が18歳に引き下げられた現在、「主權者」が主權者であるためには何が問われているのでしょうか。この問いに向き合うことなく一個の政治的主体たる我を確立できないのではないでしょうか。

敗戦日本を受けとめて

 戦後日本の教育は、日本の敗戦は何かを問うなかで、あるべき道をめざそうとしました。その営みこそは、敗戦を人間としての日本人の敗北という痛覚を場に、一個独立した人間としての人間意識、人格の育成をめざそうとの思いです。終戦直後の8月18日に文部大臣に任命された前田多門は、東久邇ついで幣原内閣の文部大臣として、敗戦日本を再建すべく教育改革を担いますが、公職追放によって在任わずか5ヶ月で文部省を去りました。文相としての前田は、新生日本の教育が問われる課題をシビックス―civicsの確立、公共生活への日本人の開眼に求め、この精神を樹立するのが教育の要務と考えていました。この想いは、「再び、われわれは天皇を神にしてはならない、という祈りをこめて」、天皇の「人間宣言」を起草した時に前田の念頭にあったもので、「起草当時、私の頭に去来した思想はやはりこの公共生活への日本人の開眼ということであった」となし、後に「新公民道の提唱」(『ニューエイジ』 1951年1月)で次のように回想しています。

私が文部大臣の職にあったとき、初めて進駐軍が来て教育係の軍人が私の許に見えた。先方の第一の質問が日本の教育科目でいったい何が一番欠けているかということだ。それに対して私はCIVICSにあると答えた。シヴィックスという英語に関しては適当な日本語もないのであるが、まず公民科とか公民道というべきものであろう。この教育が欠けているから、たやすく全体主義、軍国主義に引きずり廻されたのであると答えた。私は今でも確かにそう信じている。日本の政治は今までは上から治めるのであって、下から公民が持ち寄って互いの生活を作り上げていくシヴィックスなる技術を知らなかった。

civicsへの眼

 civicsというのは、the study of rights and duties of citizenship、市民の義務と権利を学ぶことで、外部から operation and oversight government 政府に対する働きかけと監視をきちんとすることでもあります。前田は、それを「公民科」「公民道」と位置づけ、「その地域において住民が自分らの力で共同生活を作り上げていくというような意味」「われわれが共同生活体の責任者として共同生活体を盛り上げていくのだ」と位置づけ、「断片的にいろいろな公けの事柄について知識を与えるというだけの、断片的な知識を与えるという」「公民科」「社会科」ではないと断言します。それは市民教育、市民の哲学を身につける教育にほかなりません。
 日本の教育では、公民教育・公民道がなされてこなかったとの指摘、現在風にいえば市民精神の涵養に関わる教育が公教育に欠落していたということです。ここには、「民主主義はその行動の形態に於て、共同の生活を、各人が共同して行うことである。共同生活の処理、即ち政治は各人の責任である」(「わたしのそぼくな幻滅感」1955年)となし、政治は「共同生活」の処理であるがゆえに、各人が責任をもち、「共同して行う」一個独立した人間への期待がありました。いわばcivicsには、より良き「共同生活」担うにたる価値判断能力にささえられた秩序形成の主体となることが託されていたのです。このcivicsの欠落こそは一個独立の人間としての人間意識の弱さをもたらしました。「主權者教育」に問われているのはまさにこのcivicsをいかに確立するかではないでしょうか。

 

参考文献

  • 大濱『歴史の読み方、学び方』(北海道教育大学釧路校社会科教育第1研究室 2011年)