学び!と歴史

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八重よ(2)-新島襄との夫婦の世界【大河を読み解くシリーズ3】
2013.09.01
学び!と歴史 <Vol.64>
八重よ(2)-新島襄との夫婦の世界【大河を読み解くシリーズ3】
外遊中の留守を託された妻
大濱 徹也(おおはま・てつや)

 新島襄は、明治17年4月から18年12月までの1年8カ月に及ぶ欧米への旅行中、旅先から妻八重にこまごまと土地の状況を知らせるなかで、妻の身を案じています。この外遊中の手紙は、原書簡が遺されておらず、柏木義円(①)が筆写したものであるがため、新島家の個人的な話題を削除しており、旅先の見聞に関する記録を意識的に筆写したようです。そこには夫婦の世界を垣間見ることができます。

旅立ちにあたり

 4月4日、八重は湯浅治郎(②)らと英国汽船キーウァニまで送り、「別れに臨み祈祷す。鎌田、甲賀ふじ、八重は后にのこり、泛々小舟にのり神戸に戻る。舟よりも甲板上よりも白きハンケルチーフを振り、離別の情の切なるを表す」、と襄は船出の情景を「第二回外遊記」に認めています。船は午後7時過ぎに解䌫、8日6時半に長崎港着。八重は、長崎で投函された船内での見聞を記した7日付けの手紙を、11日に受取ります。
 手紙には、「御両親様方別して一体なるお前様に別るゝに随分四方に志ある此襄も心を哀しませぬ事はなく、旁々以て身体も大に疲るべしと案じ居る」となし、伝道等のための諸種の資金の配分を事細かに指示しております。その追記には「何卒々々しんぼうしてオトナシク御留守被下度希上候、グードバー」と。妻を案じる襄の姿がうかがえます。八重は、神経質なまでの各方面にわたる新島の詳細な指示をはたすのみならず、新島家の両親に仕え、学校の問題にも目を配らねばならなかったのです。
 それだけに襄は、甥の公義(③)宛の長崎安着を報じた八日付け手紙で、「何卒留守之義諸事御注意あるのみならず、偏に御老親方と八重をも御慰め被下度奉切望候」「返す返すも御老親方八重を御慰め被下度候、四方之志をして躊躇せしむるは只此一事也」と、留守宅のことを案じ、八重の支えになるようにと頼んでいます。
 襄が思い描く「四方之志」とは、公義が整理したものによれば、香港、シンガポール、セイロン、スエズ、アレキサンドリア、ローマ、フローレンス、ピサ、スイス、ドイツ、フランス、英国を広く見聞した後、九月末に北米合衆国に入り、ボストンをはじめとした故地を訪れ、日本伝道の成果を報告し、学校への支援を呼びかける旅でした。それは思い定めた学校、同志社大学設立への旅にほかなりません。

八重の身を案じ

 旅行記は、西洋見聞記として読んでも面白い世界が展開していますが、アジアに向ける眼を紹介しておきます。外遊の第二信は米国宣教師ヘーゲルの案内で香港を見聞した模様を報じたものです。香港政庁等の壮観さを「日本に見ざる所」と驚く一方、中国人街が「純然たる支那之実況を現出し家は暗黒又不潔、亞片烟を喫する人々の有様なと中々筆頭に尽し難し」となし、中国人の姿を次のように描いています。

先支那人の有様は上流より下等に至る迄一口に申せば此世に只衣食之為に出でたる者と申しても誣言にはあらざる可し

 襄は、かくアジアの野蛮に思いいたす各地の見聞を記すなかで、両親と八重の兄山本覚馬の安否を気遣い、同志社一統、学生の身を案じ、必要な経済的支援を指示しております。その八重が健康を患ったとの報には驚き、信頼している宣教医師テーラの診察を受けるようにと、その身を気遣い、新島家の嫁の身を案じたのです。

 御前様には未だに御全快無き由、其心配致候、費用は如何計り相懸候とも不苦、テーラ様(④)に御相談充分御療治被成候様仕度候、婦人之病気之一生涯之病ひ持になり、之が為に世の中に役にたたすとなる者少なからず、費用は如何ばかりかかり、又他人が如何に思ふとも決して頓着なく病に替へられず、且私も久々之脳病に而思ふ儘に之の為に働くを不得、中々困り候際、お前様も病人に相成候而は病気の共もダオレに相成、今日の如き働きの入用なる日本にあり共に病の為に妨げられしならば、御同様如何に不幸なる者となるべきも難計、療治も手厚く加へてもなをらぬ病気ならは致方無之候得共、充分手を尽さすして久々の病気とならば我々の手落ちと申べし、何卒心を大きく御持被成、少しの事にクヨクヨと御心配あらば、私遠国にあり中々お前様之御身に心配致し、私の養生もとげすして直に日本に帰らねばならぬ事も出来すべし、此身を主基督に捧げ、且我愛する日本に捧げたる襄の妻となられし御身ならば、何卒夫之志と且其望をも御察し、少々の事に力落さず、少々の事を気にかけず、何事も静に勘弁し、又何事も広き愛の心を以て為し、如何に人に厭はるるも人に咀はるるも、又そしらるるも常に心をゆたかに持ち、祈りを常に為し、己を愛する者の為に祈るのみならず己れの敵の為にも熱心に祈り、又其人々の心の る迄も其の為に御尽しあらば、神は必ずお前様之御身も魂迄も御守り被下べし、返す返す少しの事に御了簡違ひの無之様、種々六ヶ敷事あるは世のならひなれば、何卒主と共に棘の冠をかふり、又身にいたき十字架迄も御になひ被下度候、何事もすらすらと参るのが私共の幸ならず、此六ヶ敷世の中に心に罪を犯さず、人をにくまず、之を忍び神の愛を心に全うするこそ我等信者の大幸なれ(略)御年寄様も段々御年は進み、且少しは我儘も出可申候得共、此上又となき私の両親と思召、日本の癖として兎角しゆふとのよめによき面(カオ)をなさぬ事もあるべきも、返すか返すも御忍び御つかへ被下度、別して食物は女子共にのみまかせず、精々御注意ありて柔かなる物を御上被下度候、(略)何卒武士の心ばかりにては足らず、真の信者の心を以て主と共に日々御歩み被下度奉希候

 この手紙には、「武士の心」をもつ八重の言動が周囲に波紋をひろげ、孤立を深めている状況が読みとれます。八重は、気難しい襄の両親に仕え、同志社をめぐる個性的な人間関係のなかで、心労を重ねていました。とくに八重と両親との関係は襄をなやませていたようです。そのため老人への心配りを求め、夫の志を実現するためにも、イエスに目を向け、信仰によって生きることを説いたのです。ここには、襄と八重にとり、志をもって時代を生きることが如何に厳しいものであったかがうかがえます。八重は、襄にとっても、時代を己の足で馳せ行く女だったのです。

①柏木義円(1860-1938)
 越後国三島郡与板の西光寺に生れ、新潟師範、東京師範に学び、群馬県の小学校校長。同志社英学校に入学したが学費続かず、中退。再び群馬県で小学校校長。安中教会で受洗。再び同志社普通学校に再入学、熊本英学校教師。新島襄の信頼厚く、「同志社文学会雑誌」の編集を担当。教育勅語を批判。後に安中教会牧師として『上毛教界月報』を編集、足尾鉱毒を批判、非戦平和の論陣を展開、総督府の支援を受けた組合教会の朝鮮伝道を批判。
②湯浅治郎(1859-1932)
 群馬県安中の醸造販売業有田屋経営、帰国した新島襄の指導を受け、安中教会を創立。群馬県会議員として群馬県を廃娼県となし、衆議院議員であったが、新島没後の同志社をささえるべく、財政を担当。警醒社、民友社を支援。妻初子は徳富蘇峰の姉。
③新島公義(1861-1924)
 植栗義達の次男。襄が脱国していたので、弟新島双六が死亡したため、新島家の養子となる。
④テーラ W、Taylor(1835-1923)
 ミシガン大医学部、オベリン神学校を卒業、1874年(明治7)に神戸上陸、医療宣教師として同志社と契約したが、京都府が医療活動を認可しないため、1878年に同志社をやめ、大阪に在住して1912年まで医療とキリスト教伝道に従事。