学び!と歴史

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新島襄の決断―憂国の激情【大河を読み解くシリーズ4】
2013.10.04
学び!と歴史 <Vol.65>
新島襄の決断―憂国の激情【大河を読み解くシリーズ4】
大濱 徹也(おおはま・てつや)

承前

 新島八重を主人公としたNHKの大河ドラマは、八重の夫となる新島襄が登場してきた由。どのように襄が描かれるか不明ですが、上州(群馬県)安中藩士新島七五三太(しめた)、後の襄は、兵庫湊川の楠公墓碑を訪れ「嗚呼忠臣楠子之墓」に涙し、その拓本を八重と住んだ京都の自宅書斎にかかげ、己の志を問い質した人物でした(Vol.3「楠正成像に読みとる時代精神」参照)。
 この楠公の思いに己の志を重ねた新島襄は、ペリー来航の嘉永癸丑がもたらした欧米列強の襲来に強い危機感を抱き、攘夷の思いを胸に秘め、1864(元治元)年7月に箱館からアメリカに密航、アメリカ伝道会社の宣教師として1874(明治7)年、10年4カ月ぶりに帰国。この間、72年から73年にかけ、岩倉使節団に随行してアメリカ、ヨーロッパの教育制度調査に従事。帰国を前にした伝道会社の年会では、日本にキリスト教主義の学校設立を訴え、その支持を得たのです。
 その足跡は「新島襄の初心」(Vol.60)で紹介しましたが、今回は密航前夜の新島七五三太がとらわれていた憂国の激情ともいうべきものを読み解き、帰国後の襄が京都の地から日本に何を発信しようとしたかの初心をうかがうこととします。この激しい憂国の情は、西軍ともいうべき薩長の非情な攻撃に対陣し、会津を守護せんとした東軍の女兵士八重が思い抱いた愛藩(あいこく)に通じるものともいえましょう。密航までして世界を手にいれようとした襄が思い描いた世界は、「八重」に託された物語において、どのように語ってくれるのでしょうか。

宣教師ニコライへの手紙

 襄は、1864年に箱館でロシア領事館付き司祭ニコライの下に寄寓、ニコライに古事記等を教え、一方で英語を学び、密出国の時に備えます。この書簡は「(元治元年)五月 ニコライ様玉机下」と認められたものですが、新島自筆の封筒に入れられていた筆写のもので、襄の自筆ではありません。「クライスト」教を学びたいとの文面には、海外密航をニコライに支援を求めるための方便の感がありますものの、日本の覚醒をめざす憂国の情は新島の思いを説いたものです。

私儀今度江戸表より当地へ参候はよの義に無之、外国の人々に交はり、自分の行義は勿論、国を治むる道なとを承はらんとそんし、私の主人も親も許さざりしが、色々と申立、よふやく当地へ参る事を得、はからすも貴殿の御世話に相成候は、実に平生の願ひに相叶ひ、心の喜びいはん方も無之候、依而日夜学問に出精いたし候ハヽ、遂には私の本望も成就いたすべしと楽のしみをりしに、(目下、眼を病み、読書も出来ずに鬱々として日々をすごしていると心境を述べた後に)
私の西洋学をいたし候は、日本の地は尽く海岸なる故、航海術を開らき無事なるときは諸国へ参り公益いたし、事ある時は海軍をもて敵をふせぎ候ハヽ、一としほ国家の為に相成候半とぞんぜしに、近頃政府の政事益たゝす、国家益みだれ、物価益高登し、万民益困窮いたし候、さて国の有様かくなりしは、全く教のたたずして、国人神の道を知らさるより然らしむるとそんし候、嗚呼国のしか成りませしに、無理おしに兵を練り船を造る共、欧羅巴(ヨーロッパ)各国には敵しがたし、欧羅巴各国の強兵も敗り難きは唯一つの道理なり、然れば航海術は瑣末の事に而、私共は第一に「クライスト」聖教を学ひ己れをみかき、而して後其教書を釈して国中に布告いたし、国人をして尽く欧羅巴の強兵もやぶり難き独一真神の道を知らしめば、政もおのつから立ち、国も自らふるひ候半とそんし候、嗚呼我邦もしかなりませば、私の身はCrucified(磔)さるる共決してうらみず、全く神への奉公「クライスト」への勤めとそんし候、しかし日本にて「クライスト」教を学ばんには、極めてかたかるべし、いかんとなれば、「クライスト」教は国禁のみならす、此地にて学ひ候得ば速やかにはまいり難からん、故にひそかに欧羅巴へ抜け行き、是非とも此の志を遂けんとそんし候、去ながら欧羅巴へ参り学問いたすへき用意の金は更に無之候故、途中にては船のマトロス、彼地へ参り候得ば、「クライスト」教学校の小使となりてもくるしからず、偏に彼地へ参り充分学問いたしたくそんし候、扨右様の工夫もありしゆへ、いかにも養生いたし、少しも早く眼をいやしたくそんし候間、(どうかロシア病院で治療できるように紹介してほしい)
御頼みのほとこひねかひ候、且つ私学問の為めとて欧羅巴へ参り得べき工夫は、いかかして宜しきか臥し而奉伺候

国家の改造は精神の覚醒から

 新島襄は、ニコライの下でキリスト教に目覚めたかというと疑問ですが、「近頃政府の政事益たたす、国家益みだれ、物価益高登し、万民益困窮いたし候、さて国の有様かくなりしは、全く教のたたずして、国人神の道を知らさるより然らしむるとそんし候、嗚呼国のしか成りませしに、無理おしに兵を練り船を造る共、欧羅巴各国には敵しがたし」と、精神の覚醒なくして国家の改造はなしえないとの思いを吐露しています。この思いこそは、楠公の精神に己の身を捧げんとした志につうじるもので、時代を覚醒せしむる精神の器を求める旅をなさしめたのです。
 密航の船中で漢訳聖書を学び、「ロビンソン・クルソー」を読むことで、造物主たる唯一の神を強く自覚した新島は、船主ハーディ-の庇護を受け、Joseph Hardy Neesima、と称し、日本を救済するヨセフになる意思を表明し、Joseph-襄と名乗りました。アンドーヴァー神学校附属教会で洗礼を受け、アマースト大学に学び、アンドーヴァー神学校に進み、牧師となり、日本宣教の任を受け帰国。
 キリスト者新島襄は、御一新前夜の1867(慶応3)年3月、父新島民治にアメリカにおける生活の様相、アンドーヴァーで学ぶ日々を報じ、「天上独一真神の道を修め」ていること、「天上独一の真神全家を恩顧し、悪事災難を禦き、かつ日々の食物を賜ひ、其上以前に犯したる罪を御ゆるし被下」と、「主の祈り」を教え、この祈りを「御となへ候得は、此神喜んで必らす其の祈祷を御聞き未来の冥福を被下候事必定に御座候。扨此神の事は逐々小子帰郷の後仔細に可申上候」と、キリスト者たる己の世界を説き聞かせています。まさに新島七五三太は、新島襄となることで、日本の改造がキリスト教による覚醒でしか為しえないとの思いを宣言したのです。

◆ニコライ-Ioan Dimitrovich Kasatkin Nikolai(1836-1912)
1861(文久元)年箱館着。日本全国にハリストス正教を伝道、その日記には伝道で訪問した各地の民情が記されています。全国布教の拠点となる会堂を東京お茶ノ水に建設、ニコライ堂の呼称で東京名所となる。『宣教師ニコライの全日記』全9巻 教文館(2007年)
ヨセフは、創世記37-50章に記された物語の主人公。