学び!と歴史

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八重よ-新島襄が認めた世界から【大河を読み解くシリーズ2】
2013.07.01
学び!と歴史 <Vol.63>
八重よ-新島襄が認めた世界から【大河を読み解くシリーズ2】
ドラマより一足お先に
大濱 徹也(おおはま・てつや)

「八重の櫻」という物語

 新島八重の物語は、大河ドラマの展開とともに、世間の話題をよんでいます。このドラマには、国家から断罪され、離散した会津藩が負わされた苦闘に重ね、幕末明治の世を己の思いを貫いて生きた女性の姿を問いかけ、3・11の悲運に翻弄される東北の民が負わされている世界を描くことで、自立した女の声に託した東北応援歌を意図しているようです。3・11以後のNHKは、「日本人は何を考えてきたのか」が原発事故による放射能の飛散により東日本大震災がもつ人災を現在にもたらした近代日本の負をみつめ、日本人の生き方を問い質し、東北の民に根ざした生命の在り方を提示し、その生き方にエールを送り、ことさらに東北の目を意識しています。「八重の櫻」は、朝の連続ドラマ等にもみられるように、女の自立という当世風の課題に重ね、震災の記憶が年とともに忘れられ、失われていく世間の風に対し、記憶の蘇生と継承を問い続ける作法にほかなりません。
 新島襄は、夫として、このドラマに生かされている八重とどのような世界をつくっていたのでしょうか。襄の日記や手紙にみえる八重の世界は、今後に展開していくドラマでどのように描かれるのかは不明ですが、一人の妻として時代を生きた女性の相貌を、ドラマの展開に先立ってみておくこととします。なお、新島襄は、『新島襄全集』3・4巻(書簡編)5巻(日記・紀行編)にみられるように、記録魔といえるほどに筆まめな人物で、日々の記録にくわえ、旅日記や手紙等に旅先の風物を事細かに記録し、遺しています。これらの記録をもとに八重をめぐる世界を紹介することにします。

明治15年の旅から

 新島襄は、明治9(1876)年1月3日にアメリカン・ボード派遣宣教師J・D、ディヴィスの司式で山本覚馬(①)の妹八重(1845年生れ)、31歳と結婚します。京都で最初のキリスト教による結婚式です。新島が京都に同志社を設立できたのは京都府庁に影響力をもっていた覚馬の支援あってのことです。また、ディヴィスは、同志社に35年間身をおき、その運営をささえ、新島没後にいち早く「新島襄傳」を英文で世に問うた人物。書簡集にみられる八重宛手紙は、国内のみならず海外に赴いた旅先からのものですが、山本家への気遣いや両親、宣教師、学生への気遣いを認めています。傳道や同志社設立の募金などの国内旅行には、同伴もし、旅先における八重の行動を尊重しています。
 明治15年7月、新島は中仙道を通って郷里安中に向い、11日に安中で八重と落ち合い、18日に馬車で高崎に出立、新田義貞の城跡を眺めるなどの旅程を楽しみ、20日午後日光着。21日に「余は歩行、八重は駕籠にのり、早朝より発し、途を枉げ先裏見が滝」を見、午後華厳の滝から中禅寺、二荒神社を経て日光にもどっています。ついで7月27日に八重の故郷会津若松を訪れ、8月1日まで滞在。この旅は、夫婦にとり、お互いの里帰りをかねた新婚旅行であったといえましょう。

襄がみた八重の故郷

 襄の目がとらえた「若松地方の物産」は、戊辰敗残の翳を負うもので、次の様に紹介されています。

 塗物 北方に於て製す
 陶器 若松の西南に当り本郷と称する所に於て製す
 蝋燭 若松   
 養蚕、麻、米質は中等、其味は宜し、酒に適せず
 果物は各種、蜜柑の類なし
 魚塩は他より輸入す、魚は越後より来るものを十分の九とす
 木綿は不足、他より来る
 絹は他より来る
昨年より公立中学設立す、尚微々たるよし。義塾はなし、人々に資産なし、又教育の貴重なるを知らず
此地方の士族の家は殆ど三千二百戸、士族中多くは貧困、政府より授産金下附の沙汰あるにより、何人かの誘導ありて漸々乎と帝政党に入るものあるよし。然るに北方に於ては、農民中往々自由党に加入し頗る民権皇張を望むものあるよし。此の党は僅かの下附金により左右されざる資産持の民権家たるよし
授産金は二十八万乃至は三十万円なるよし ○新聞紙なし、又新聞を取るの人も僅少なるよし。

 ここには、県令三島通庸が12月に福島自由党を弾圧した福島事件前夜の民権派に結集する者の様相が読みとれます。新島は、8月1日に伊勢(横井)時雄(②)を同伴して若松を出立、山形県下南置賜郡関村の高湯(現米沢市関の新高湯温泉)に21日まで滞在して身心を休め、米沢で上杉鷹山を偲び、三島通庸が開鑿した栗子隧道、福島に達する三島道路を紹介しています。この間、先に一人で帰京した八重に湯治場から手紙を出しておりますが、その手紙は現存していません。湯治場での日々を知らせたものと思われます。湯治場の日々は8代将軍吉宗の御落胤をめぐる天一坊事件について熱心に調べています。ここには己の足元、傳道する民衆の心意に心よせる新島の思いがうかがえます。このような足元を読み取る眼を失っているのが現在のキリスト者の姿です。
 新島襄は、己の目で日本という大地をみつめ、日本の新生を模索していました。妻八重は、己の志を実現するために飛びまわる夫襄の健康を気遣い、「しゆふとのよめによき面(かほ)をなさぬ事」にも耐えていきます。それだけに襄は、良人として妻の身を案じ、旅先から日々の様子を事細かに知らせたのです。

 ①山本覚馬(1828-1892)
 会津藩の砲術指南。白内障で盲人となったが、明治維新後に京都府大参事、顧問として京都の近代化を推進。京都府会初代議長、京都商工会議所会頭等を歴任。旧薩摩藩邸を同志社の敷地として新島襄に斡旋。家ではラーネッドが「国富論」講じるなど政治学、経済学の講座を開き、青年の育成にあたった。
 ②伊勢時雄(1857-1927)
 横井小楠の長男、母は矢嶋楫子の姉つせ子。妻みねは山本覚馬の次女。妹みやは海老名弾正の妻。母つせ子の姉久子の子が徳富蘇峰・蘆花。一時伊勢姓を名乗る。熊本洋学校でジェーンズに学び、「西教」への信仰を宣言した奉教趣意書に署名、家を追われ同志社に学び、牧師として新島を助ける。第3代同志社社長となるも、神学上の煩悶もあり、キリスト教界に訣別、官界に転じ、政友会から代議士となるも疑獄事件で場を失う。内村鑑三は、不敬事件の心労で斃れた妻加寿子の葬儀に参列し、その居場所を失った内村を助けてくれた横井の恩義を終生忘れず、その葬儀で追悼演説をした。