学び!と歴史

学び!と歴史

体罰教育の根にある世界
2013.05.02
学び!と歴史 <Vol.62>
体罰教育の根にある世界
大濱 徹也(おおはま・てつや)

私的体験から

 海軍における「精神棒」で臀部を撃つ制裁は、「ケツバット」と称し、1950年代の高校球児の世界で日常的にみられた光景でした。エラーをした、負けたといって、精神がたるんでいるとなし、「ケツバット」がふるわれたのです。野球部員には、甲子園への予選がはじまる頃になると、臀部の痛さで廊下の壁につかまり、蟹の横ばいのようにソロソロと歩いて教室に入ってくる者が再再いました。その珍妙な風景は、「ケツバット」なる野球部に特有な“しごき”によるものです。試合で負けた、エラーをした、打てなかったのは、精神がたるんでいるからだとなし、臀部をバットでなぐる。こんな馬鹿げた風景が高校球児の世界で日常的でした。
 このような風景を見聞すれば、高校球児を「純粋」だと讃え、夏になると囃したてる甲子園物語ほど下らないものはないと実感しました。運動部の連中の底意地の悪さは、体育祭で競技にかこつけ、柔道部の連中が気に食わない者に技をかけて倒し、暴行することが日常的にみられた由。柔道部ほど、嘉納治五郎が説いた世界と無縁な、技を暴力の具にする連中はありませんでした。このような世界で育ってきた世代が現在の柔道界を指導しているのではないでしょうか。
 私が小学生で受けた体罰は、給食を嫌がったといって、水をいれた給食バケツを両手に持たされて廊下に立たされたこと再再。その教師がある時から奇妙に猫なで声になったので、「なぐったら首を切られるから」と言ったら、顔面を鬼のようにしたことを覚えています。教師には、嫌な、腹の立つ子どもであったと思う次第。ことほど左様に教師への不信とその暴力に嫌悪感をもって育ちました。
 日本の軍隊を研究素材にした時、学校教育における体罰、暴力教育は軍隊に根があることを確信しました。天皇の下にある「一大家族」という幻影は、暴力をして、親が「わが子」の行く末を思う「愛の鞭」とみなさしめ、体罰を教育となし、その残虐な行為を隠蔽し、肯定するシステムを構築したのです。
 かつ日本の教育は、「良兵良民」をかかげ、子どもたちを良き「兵隊さん」に、軍人に育てることをめざしていました。このことは、すでに紹介した「尚武須護陸(しょうぶすごろく)」(Vol.1 2007年3月掲載ico_link)の世界に読みとれます。暴力を是とする教育は、人間を犬猫とみなし、調教することにほかなりません。そこでは、教育に問われる言葉による理解と説得が否定され、優位者が権威と権力を体現する暴力で他者を圧服せしめるのが教育と思いみなされています。まさに軍隊教育は、この暴力のシステムをして、ある種「芸術的」に磨きあげた作法にまで高め、体罰制裁をする己に自己陶酔せしめる世界を生み育てたのです。この制裁は、先にその一面を紹介しましたが、いまだに運動部等にみられる体罰のアラカルトに受け継がれています。

体罰のアラカルト

 水を入れたバケツを両手にもって廊下に立たせる作法は、一尺平方位の手箱を両足爪先と両手の二箇所に重ねて、その上で「前へ支え」をする制裁につながるものです。この手の制裁には、海軍の「ハンモック支え」「衣嚢支え」をはじめ、左右に揺れて進む端艇のオールを高く捧げる「橈(かい)支え」、卓や椅子の間をもぐって行き、「ホ―ホケキョ」と鳴く「鶯の谷渡り」、小さく区切られた衣嚢棚に入る「蜂の巣」、厚いズックで出来た衣嚢に入り、首だけ出してしばる「ダルマ」等々。制裁の名称は何とも風流を思わせるとはいえ、そこに見られるのは人間の尊厳を削ぎ取り屈辱感をあたえるものにほかなりません。いわば軍隊では、多様な制裁で己を抹殺し、一個の物になし、唯々諾々と考えることなく命令に従順な兵にしていくことでした。そこでは、制裁を制裁と受けとめる感覚が麻痺し、精神を覚醒するために制裁を自分から求める心性がつくられたのです。ここに体罰が精神を覚醒し、弱き我を鍛えるとの思いが増幅されていきます。制裁を加える者は、己の行為をして、次のように弁明しております。

やる気さえあれば、できないことはない。できないんじゃなくて、お前達にはやる気がないんだ。やる気がなければ、いくらでもやれるようにしてやる。なにも、俺達は、お前達を、こんな寒い中へ、何時間も立たせたり、嫌な文句をきかせたり、好き好んでやっているのじゃない。文句をいう側になってみろ。痛い目にあわせる身になってみろ。決して、楽なものじゃない。なるべく文句をいうまい、痛い目にもあわせまいと、思えばこそ、じっと我慢していたんだ。だが、もう、黙っていられない。

 かく云々と問い語り、制裁がはじまります。この「海軍説教文例」にみられる口説きは、当世風に、昨今話題の女子柔道にあてはめれば、監督の心象風景が見えてくるのではないでしょうか。これが体罰なるものを日常化していく世界だったのです。

制裁根絶への目

 陸軍は、私的制裁の根絶のための指針において、「監督上の準拠」で「犯行、原因、動機」として、「1)教育の熱心其の度を過ぎて之を犯すもの、2)教育及経歴の差異より生ずるもの、3)集団的社交に慣れざるため、4)能力程度の差異より来るもの、5)切磋琢磨を誤用したるもの、6)自己の怠慢性の欲望を達せんため、7)不純なる動機に基く物的欲望を達せんがため、8)性来の残虐性より来るもの、9)権力を弄せんと欲する欲望より来るもの」、と説き、その対処方を具体的に提示しております(山崎敬一郎『内務教育の参考』1933年)。この指摘は、現在問われている体罰を当然視する教師指導者にあてはまるもので、軍隊における制裁が根深く息づいている底知れぬ闇をうかがわせる。
 この闇を撃つには、人間が人間であることへの目を育て、己が組織の部品ではなく、一個独立した人間であることを取りもどすことではないでしょうか。それは、「道徳教育」ではなく、人格とは何かを問い質すことからはじまります。
 想うに戦後教育は、人格を説き聞かせながら、人格を身につける教育を疎かにしてきたのではないでしょうか。人格への認識は、新渡戸稲造が問い語った「人間以上のものがある」こと、この大いなるものへの目を身につけることではないでしょうか。まさに日本は、このような人格観念を欠落させ、人間を横の関係でしか見ないがため、他者との競争で選別していく作法に囚われて生きる社会を是とする構造です。そこでは、人格の平等という観念が人間の平準化とみなされ、匿名化された均質な社会が当然視されたのです。この構造の根には、明治建国以来の国のかたち、軍隊教育の闇を問い質すことなく、「民主主義」の乱舞に埋没した「市民」の存在がみえてきます。ここに求められるのは、小手先の「根絶」ではなく、人格への目を研ぎ済ませ、己の場から明日を手にする営みではないでしょうか。


参考文献

  • 大西巨人『神聖喜劇』(ちくま文庫)、同編『兵士の物語』(立風書房)
  • 大濱徹也・小沢郁郎編著 『改定版 帝国陸海軍事典』(同成社)