学び!と歴史

学び!と歴史

日本軍隊における私的制裁の相貌
2013.03.28
学び!と歴史 <Vol.61>
日本軍隊における私的制裁の相貌
“体罰”のルーツを読み解く
大濱 徹也(おおはま・てつや)

「一大家族」という語り方

 戦時中の日本軍隊は、天皇を頭首と仰ぐ「一大家族」である「天皇の軍隊」とみなされ、中隊を兵営における一個の家とみなし、内務班を基本単位とする「家庭」と位置づけることで成立していました。この内務班は、戦時における戦闘集団であるため、平時において起居を共にする生活のなかで「兵」を兵たらしめる教育の場として軍隊の成否を決定付けました。ここに内務班での教育は、下士官を中心に、「家族主義」の名の下に軍人たるべく、身心にわたる徹底した訓練として展開されました。その訓練は

1)日常生活の一挙一動に軍人精神を具現してこれを訓練し、軍紀に慣熟し、軍人に欠くべからざる各種善良なる品性を形成する訓練
2)上下同輩の間骨肉の至情を以て相親しみ、軍の本義に邁進する共同の目的の下に強固なる団結を完成する家庭的訓練
3)戦時編成に近似する団体内において命令下達・諸勤務の要領・陣中内務に資する訓練
4)命令規則を遵守し、困苦欠乏に耐え、諸勤務に勉励せしむる訓練
5)規律、容儀共に正しく且時間的なる生活訓練
6)礼儀作法に関する躾
7)馬匹の飼養管理、兵器・被服の手入保存等の演習訓練と馬匹の愛護、兵器・被服其他の官物を尊重し常に其員数を整理し置く訓練
8)火災予防・消防・非常呼集等の演習訓練
9)衛生を重んじる躾

 まさに軍隊生活は、日常の起居を共にする団体生活を営むなかで、絶対服従と団結心を心身に刻みこむ精神教育をとおして社会生活の躾をする世界でした。このような軍隊で身につけた生活の知恵を処世訓として生かすことで、その後の人生を上手に送った者にとり、軍隊生活は人生道場でもあったのです。そこでの日々は、良き記憶のみ思い出として残り、軍隊の厳しい訓練と躾をのりこえた己の現在を確認することで、当世の風潮を論難する根拠にもなっております。このような気分は、個性の尊重を説く戦後教育を批判する声をささえ、厳しい躾を強調し、たくましい青少年の育成を期待する風潮をうながしています。はたして内務班教育とは、そこでの規律や躾をささえたものとは、何だったのでしょうか。軍隊生活を認めた日記や文学作品から軍隊に囚われた人間の姿を読み取ることとします。

軍隊という世界

 1933年8月に入営した藤田稔は、15日に「厳正」「鉄石の団結、融和」「滅死奉公」「積極敢為」との部隊長訓示を受け、軍隊生活をはじめます。その日々を認めた『一無名兵士の手記』(みやま書房 1988年)には、脱走して自殺した兵の姿とともに、初年兵として教錬以上に、二年兵等につくす日々の営みが記録されています。

演習が終わると助教や助手のところへ飛んで行って、巻脚絆をといてやる。軍靴を脱がしてやる。それから自分だ。二名分の手入れ時には四,五名分の手入れをやる。襦袢、袴下、沓下がよごれている。洗濯。(8月25日)
「おい、お前はやる気があるのか?」
今村兵長は毛布の中で仰向けに寝たまま、噛みつくように怒鳴った。おれは不動の姿勢で殴られる覚悟をした。が、彼は殴らない。ジワリジワリと攻めてくる。(10月1日)

 中野重治は、二か月ほどの兵隊体験を「第三班長と木島一等兵」において、第三班長島田の姿にたくして軍隊生活をと描いています。

 まっ暗な中で、びしいッという肉を打つ音がしてわたしは目がさめた。
「むゥ、きさま・・・・」
 押さえた島田の声につづいてまたぴしりと鳴った。
「すみません。勘弁して下さい。すみません。勘弁してください。」
 浅岡はうつ伏しになって打たれているらしく、わたしが覚めてからは四回ほど同じことがくりかえされた。

 海軍は、乗組員を軍艦の部品とみなし、その錬度をあげるために制裁を制度化していました。宮内寒彌「艦隊葬送曲」は、「海軍罰直選」で、制裁の数々を描いています。

 ビンタ。そしてこれが動詞になると他は知らぬが呉の方では「ビンタをカチまわす」という。嫌なことばである。「ビンタ一つ飛ばす日はなし秋のくれ」
秋であろうと冬であろうと、一年四季を通じ、これは日常茶飯事だった。それが、いつわが上に来るかと思うと、気が滅入り、殺伐な、やり切れない気持だったが、次第になれてしまった。
 しかし、これも、平手の分は音も明るいし大して痛くないけれど、鉄拳を円盤投げのような格好で左右交互にやられると眼が眩んで倒れる。(略)
 海軍制裁法の王者は、かの「直心棒」または「精神棒」別名「バッタ」であろう。長さ一米余り、直径二寸位の樫か桜の棒が隊の玄関に堂々と飾ってある。これが、時あって満身の力で宙を斬って唸るのだ。この光景は委しく書くに忍びないが、人間の体というものは、臀部というものは案外強いものだ。犬や猿だったら、その場で死んでしまうだろうが、人間は、臀部が紫色と化しても、決して、死ぬものではない。犠牲者もあったが、普通の場合は死なない。これを総員罰直の時は一人平均五本から六本位、個人の場合は、軽いこともあるだろうが、気を失うまで食う。そして、水をかけて蘇生させて、更につづくこともある。

 海軍の制裁は、軍艦という運命共同体を担うものが一体化するための作法として、制度化されたものでした。この制裁作法は、陸軍における私的制裁の様式にもみられるもので、日本軍隊の共通した文化にほかなりません。このような軍隊教育の作法こそは、日本における集団の規律を支えるものとみなされ、現在も運動部をはじめとする世界の練習作法にみられる体罰の原点となったものです。
 学校教育、運動部等に広くみられる体罰は、このような軍隊における制裁を是とした訓練教育の延長にほかならず、人間を戦う部品とみなす日本の近代教育の原像にほかなりません。しかし制裁教育は、兵士の自殺を生み、入営を忌避する風潮を増幅し、反軍気分の温床となったがため、昭和期にその対応が検討されました。次回は、この制裁根絶への取り組みを検証していくことで、現在問われている体罰問題が提起している世界と同じことが論じられていることを読み解くこととします。いまだ日本の教育の根にある帝国軍隊の体臭から自由でない現況を撃つために。


参考文献

  • 大濱徹也『天皇の軍隊』(教育社歴史新書)
  • 大濱徹也・小沢郁郎編著『帝国陸海軍事典』(同成社)