学び!と歴史

学び!と歴史

みちのく・東北のお伊勢さま
2012.05.01
学び!と歴史 <Vol.55>
みちのく・東北のお伊勢さま
-開成山大神宮創成記-
大濱 徹也(おおはま・てつや)
開成山大神宮

開成山大神宮

 福島県郡山市の開成山大神宮は、明治9年9月18日に皇大神宮(天照大御神)の分霊を祭神として奉遷し、大槻原開墾と安積原野の開拓守護神とした神社の由来から、現在「みちのくのお伊勢様」「東北のお伊勢様」として親しまれています。その誕生は、安積郡大槻原開墾のために、開拓入植者に協同一致の精神の器を備えんとした営みがあります。この営みは、大槻原開墾から猪苗代湖疏水開鑿による安積原野開墾を可能となし、現在の郡山市発展の基礎を築いたものです。この誕生記には、東日本大震災により、新たな大地を造営していくうえで、民心をささえる器の存在が欠かせないという物語が読みとれます。

大槻原開墾への想い

 大槻原開墾は、福島県令安場保和が企図し、旧米沢藩士中条政恒が中心となって実施したものです。中条は、「各富豪なりと雖も邑の為め国の為め尽す所なくんば守銭奴の侮辱免るべからず」と、郡山の富商を説得して開墾に参画させます。かつ戊辰の内乱で「朝敵」となり生活の術を奪われた旧二本松藩士族を入植させ、開墾の第一歩を踏み出します。
 中条は、明治6年3月に大槻原の現地を視察、出磬山(でけいさん)頂より安積原野を望み、開墾への決意を詠みます。

明治六年春正午(めいじろくねんはるしょうご)
夕陽立馬望平原(ゆうよううまをたててへいげんにのぞむ)
誰図華府中天月(だれかはからんかふちゅうてんのつき)
長照英雄一片魂(ながくてらすえいゆういっぺんのたましい)

 この詩は、アメリカの首都ワシントン―華府に重ね、英雄ワシントンの治績に想いをはせ、開墾地大槻原の困難な開墾事業の実現への心情を吐露したものです。まさに中条は、この壮図を実現すべく、郡山の富商を開墾事業の推進力として「開物成務」をはかるべく、開墾地を一村となし、出磬山に連なる小丘「放森(はなれもり)」を「開成山」と改称します。

遥拝所の設立

 ここに中条は、開成山上に遥拝所を設け、「山上山下花卉を植え遊園」となし、「郡民の気を和らげ」て協同一致の精神を生み育て、民心の結集をはかろうとします。この遥拝所建設に託した想いは次のように問い質されています。

今や万国と往来交通人民稍く天地の公道を知ると雖も未十分の一二も至らず、輦下に居て皇帝の御諱を知らず、其国に居て其国の元祖を知らず、実に無知無識の民と謂はさるへけんや、通交の諸国我を侮り我を笑ふは或は之に由る残念至極の儀に非ずや、其内取分け東奥の民は久敷覇政に漱染し、今日維新の隆時に会して尚未だ国帝を尊び国祖に報ゆるを知らざるに似たり、嗚呼是般開成山に於て遥拝所を設け、貧民流民愚夫婦と雖も此大義に遵行せしむる所以の大旨なり、四月三日神武帝の御祭事に歓欣鼓舞して遥拝式を行はヽ、皆以て国祖に報ゆるを知り、十一月三日天長節に逢ひ抃舞揚踏して遥拝を行はば、皆以て国帝を尊ぶを知るべし、大教於是て明かに東奥覇政の癖習遂には絶するを得へし、未開の民を教ゆるには此等の作用に非ずんば何ぞ戸々に渉り人々に及すを得んや、(略)
大凡新置の村は其民散じ易く其家亡し易し、必竟品物器具日用常務多く備らず、其地寥々として人心不愉快を生ずる故也、人楽めば村も亦盛なるべく、(略)新村をして快楽ならしむるは新村のすわりを堅くする所以

 開成山の遥拝所は、開墾地の民心結集のみならず、安積郡内の人民が協同一致する器となり、東奥の人民を国家の民にする場と位置づけられたのです。ここに明治6年11月3日の天長節の遥拝式は、山上に官吏正副戸長、神官僧侶等々が列座し祭式を営み、「近村隣郷老を携ひ、幼を提げ、或は一隊旗を翻すの壮者あり、或は綺羅群を為すの学校生徒あり、或は弦鼓舞踏の一連あり」と、歌い舞う者、「雑劇山車至る所人山を為す」にぎわいで、「来観する者皆耳目を驚かす」有様で、「此祭三日間に亘り集まる者無慮六万人に下らず」と、報じられています。

開成山大神宮の創建と移住者の心

開成山大神宮

開成山大神宮

 いわば開墾地の民心結集をめざした開成山の遥拝所は、天長節と神武天皇祭を営むことで、安積郡民の祭りの場にとどまらず、東奥の人心結集の器たろうとしたのです。ここに大槻原開墾の展開をふまえ、遥拝所でなく開成山上に開拓所神社を創建し、皇大神宮の分霊を奉祭する岩代大神宮となし、さらに安積原野の開墾へと発展させ、東北の「頑民」に国家の恩沢を及ぼそうとの壮図がおこります。この岩代大神宮構想は、国名を用いることが許されないとして、開成山大神宮として明治9年8月4日に認められました。「みちのくのお伊勢さん」誕生です。
 大久保利通内務卿は、明治9年6月の明治天皇の奥羽巡行の先発として東北各地を視察し、大槻原開墾による桑野村を検分して心動かされ、安積野開拓と猪苗代疏水開鑿(安積疏水)を国家プロジェクトで実現してほしいとの要請を受けとめ、事業の実現に力をつくします。ここに開成山大神宮は、国家事業としての安積野開拓の推進をめざし、「某等商人元来好んで開拓を為す者に非ず、県庁の諭告に従ひ、成否を試みんと欲し、之に従事し、遂に大金を投ずるに至」ったと言う商人等の想いをして、国家の回路に位置づけ、「小村一部落に及び一国一郡の名あるも其民殆んど呉越の思を為す」「互に党を結び鍬鎌を振て闘ふ、秣場の喧嘩水の紛争」が絶えない状況を克服し、村民・郡民をして、県民・国民にしていく、国民育成に相応しい精神の要となることで、その存在を輝かせていきます。
 しかし入植した移住士族は、故地の神を勧請し、その精神の器としております。旧久留米藩士は福岡県御井郡瀬下町鎮座の水天宮、広谷原の鳥取開墾地は鳥取県の国幣中社宇倍神社、対面原の棚倉藩士族は三柱神社からそれぞれの分霊をなし、開拓に従事しました。いわば開成山大神宮は、安積野の総社と位置づけられたものの、入植地ごとの地域的党派性に強く規制されていたのです。ここには日本の神信仰の在り方が読みとれましょう。このような在り方をみつめるとき、東日本大震災で故地を追われた人びとが明日を生きる上で、いかなる精神の器を用意できるかが、復興再建の要であることに想いをいたしたいものです。
 なお、この開墾地に生きた人びとのの相貌は、祖父中条政恒の家で少女期をすごした中条・宮本百合子の作品「貧しき人々の群」に描かれています。


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『貧しき人々の群 ほか』
宮本百合子名作ライブラリー
宮本百合子 著
1994年 新日本出版社 刊