社会科教室
(小・中学校 社会)

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縄文文化を今に伝える遺構の宝庫
2009.06.20
社会科教室(小・中学校 社会) <Vol.52>
縄文文化を今に伝える遺構の宝庫
真脇遺跡縄文館 Backyardより
館長 高田秀樹

社会科教室No.52 表紙

はじめに

 真脇遺跡は能登半島の先端に近く富山湾側に面し,岩礁地帯がひろがる海岸の入り込んだ入江奥に所在している。標高は4~12mで,その地表面は海側へ緩やかに傾斜し,周りを囲む丘陵からは小さな川が流れ込んでいる。
 1982・83年に圃場(ほじょう)整備事業に先立つ発掘調査が行われ,縄文時代前期初頭(約6,000年前)から晩期終末(約2,300年前)までの分厚い包含層から多種多様な遺物が出土し,それまでの縄文遺跡の常識を覆す発見が相次ぎ,全国から注目を集めることとなった。縄文時代を代表する貴重な遺跡として認知され,37,599.94㎡が1991年に国指定史跡となり,大量の出土品の内219点が1993年に国指定重要文化財となった。
 史跡周辺には真脇遺跡公園として,宿泊施設(真脇ポーレポーレ),縄文真脇温泉浴場,木製遊具施設,真脇遺跡縄文館(博物館),真脇遺跡体験館がこれまでに整備され,1997年から史跡整備を実施するための事前調査を行っている。これまでの調査の成果に基づいて,2007年から第1期史跡整備工事を実施している。

真脇遺跡の概要

 縄文時代晩期に石川・富山を中心とする北陸地方にしか見られない環状木柱列と呼ばれている遺構がある。特徴は柱が真円配置に立てられて,線対称形に8ないしは10本配置される。クリ材を使用し,木心をはずしカマボコ状に半割りされ,割った面を外側に向けている。半割柱に付属して断面U字状の樋形の材(門扉)と断面三角の柱(三角柱)が対になっている例(門扉状遺構)がある。これは出入口の施設と考えられている。
 真脇遺跡で検出された環状木柱列は,縄文時代晩期中葉(約2,800年前)に作られたもので,同じ位置に6回も立て替えられ,中でもA環と呼んでいる環状木柱列が最大の規模である。直径約7mの真円配置に10本の柱が立ち,柱の間隔はそれぞれ約2.2mで,残存する木柱根の幅は68~98㎝,厚さは22~56㎝である。弧面の根元には曳き綱をかけた溝が彫られている例と,溝が無く底面が平らに加工されたものがある。木柱を立てた穴,素掘りのものと,拳大から人頭大の石が入れられ,さらに礎板も使われているものがある。これは木柱が重く傾いたり,沈下したりするのを防ぐための工夫と考えられる。最も南側に位置する2本の木柱に付属し南南西方向に向かって開口した門扉状遺構が検出された。これまで環状木柱列の検出例は15遺跡あるが,上部構造はいまだに不明である。屋根や壁のある建物ではないか,または柱だけが立っていたものである,あるいは遠くからでも確認できる灯台の役割を持ったものなのでは,等々,その説は多く出されている。
 縄文時代中期前葉から中期中葉(約4,500年前)にかけて縄文人が整地した粘土層が30~50㎝の厚さで調査区全体(約310㎡)に拡がっていた。土は周辺の山で採取することができる凝灰岩風化土と呼ばれる土で,縄文時代の遺物が出る層とは明瞭に区別することができる。この整地層を掘り込むように土坑群が検出された。その中で長径140~150㎝,短径90~115㎝の楕円形の大きな土ど壙こう墓ぼが4基(北から時計回りに1・2・3・4号土壙墓)検出された。ほぼ同じ時期に作られ,検出面はいずれも標高約5m,深さは約50㎝である。その内3基の土壙の底面からは大きな板が敷かれていた。最も南に位置する3号土壙墓からは,板の上に人骨が検出された。長さ93㎝,最大幅60㎝,最も厚いところで5㎝のスギ材の上に頭を北に向け仰向けで足を強く折り曲げた状態で埋葬されていた。腐食が進んでいるため,骨と土の色が異なる程度の遺存状態だが,頭部から下半身にかけて人骨と判断することができる。歯列の構成,咬耗(こうもう)の程度,および下肢骨の大きさ等から壮年期(20~30代)の男性と推定された。さらに胸から腰の位置には赤色漆塗装身具がある。このような埋葬方法は類例が無く,「板敷き土壙墓」と名づけられた。周囲に同規模のものがないことから,被葬者は当時のムラのリーダーではないかと考えられている。縄文時代の階層社会の存在を問う貴重な資料となっている。
 真脇遺跡を最も特徴づけている遺構がイルカ層である。前期末から中期初頭(約5,500年前)の地層に大量のイルカ骨が層状に検出された。この層は土器,石器をはじめ大量の動物骨が堆積していた。確認されたイルカ骨は286頭分を数え,カマイルカ・マイルカ・ハンドウイルカ・オキゴンドウ・コビレゴンドウ・ハナゴンドウの6種類である。イルカのうちカマイルカが全個体数の約60%を占めている。石器には多量の石鏃・石槍・石匙(せきひ)・削器が出土している。たくさんの遺物に混じり,直径約50㎝,長約2.5mのクリ材の丸太に彫刻を施した柱(彫刻柱)が出土した。イルカ骨に混じり出土したことから,イルカ漁に関わる祭祀に使われたものと考えられている。この時期以外の包含層からもイルカ骨が検出されていることから,真脇遺跡の存続した縄文時代全時期にわたってイルカ漁が行われていたものと考えられている。イルカは種類により回遊時期が違うので,ほぼ一年を通じて得ることのできる安定した食料源となっていたと考えられる。このことが真脇集落の長期間存続が可能となった最大の要因といえる。このようにイルカ骨が大量に出土する遺跡は世界的にも珍しく,考古学だけではなく鯨類の研究者からも注目されている。

真脇遺跡縄文館の概要

 真脇遺跡に隣接し,出土品を展示公開している真脇遺跡縄文館と体験学習ができる真脇遺跡体験館がある。イルカ層から出土したイルカ骨を始め,多くの動物の骨を展示している。それらを種別ごとに分類し,縄文人の食糧事情を推測することができる。出土した土器の内,真脇式土器がある。魚が口を開けて上を向いているように見えることから,「お魚土器」というニックネームがついている。1991年石川国体の炬きょ火か台のモデルになり,1998年にフランスのパリで開催された縄文展に出品された。晩期の環状木柱列は,保存処理が行われた木柱根を展示している。直径が1mを超えるクリの木から作られた柱は見応えがある。伐採した後に,山から木を曳く際に曳き綱が地面に擦れて切れないように溝が掘られている。磨製石斧で丁寧に加工した痕跡を観察することができる。

真脇遺跡体験館の概要

 真脇遺跡体験館では,縄文時代に限定しないで体験プログラムを実施している。このことは体験館を整備した補助事業の規定によって,水田が整備されていることにもよる。この水田で古代米の栽培体験を実施している。具体的には近くの真脇小学校と小木小学校の2校で田植えと稲刈り体験を行っている。近所のお年寄りが指導にあたり,通常の管理も行っている。収穫した古代米を使い,おはぎやもち作りの体験も行っている。完成当初は稲作の実施には抵抗があったが,取り組み方法を工夫することにより,体験学習に幅を持たせることができている。体験学習は土器作りを中心に据えているが,所要時間を3時間以上取る必要がある。近年の来館者の滞在時間等を考慮して,縄文館の見学時間を含めて,2時間以内で仕上げることのできる内容として,アクセサリー,石のレリーフ,土製仮面作りを行っている。また,来館者の要望に応じて,体験内容を工夫しながら対応している。

今後の展開

 2007年から第1期史跡整備事業を実施している。2011年には工事が終了し,史跡指定地の約3分の2が史跡公園として一般公開される予定である。整備事業で復原される遺構は,縄文時代中期の「板敷き土壙墓」4基と3本の木柱列,晩期の「環状木柱列」である。板敷き土壙墓はレプリカを出土位置に埋設し,出土状況を再現する。3本の木柱列は出土した木柱根と同じ材のクリの木を使う。また,環状木柱列も同じクリの木を使うが,直径が1mを超える大木は入手できないので,直径60㎝前後のものを使い,寄木で出土木柱の大きさに揃える予定である。寄木の方法は,木造和船を製作する技術を使う計画である。2009年から縄文時代の木の加工技術を検証しながら,木柱の製作に取り組んで行く。これらの作業工程を公開しながら実施し,一般の人が作業に参加できるように計画している。
 真脇遺跡の隣接施設は,完成した1995年から14年が経過し,植栽した木々は大きく成長して,縄文の森となりつつある。これらの施設と博物館,史跡がそれぞれの機能を発揮し,相乗効果を得ることができるようになることが,今後の大きな取り組みになる。遺跡発見となった最初の発掘から27年,真脇遺跡は大きな転換期を迎えている。