形 forme
(図画工作・美術)

形 forme
(図画工作・美術)

描くこころの起源
2010.02.12
形 forme(図画工作・美術) <No.291>
描くこころの起源
巻頭のことば より
東京藝術大学 非常勤講師 齋藤亜矢(さいとう・あや)

形forme291表1

 彼女は画用紙の前に座ると,手元に並んだペンから1本をとり,キャップをはずして描きだした。手首のやわらな動きからリズミカルに曲線が生みだされる。ピンク色,黄色,水色……。7色の線がうねりながら交差し,紙全体に広がった。
 –なぐり描きをする小さな子ども,あるいは抽象画を描く画家が思い浮かんだかもしれません。ところがこの彼女,京都大学霊長類研究所のチンパンジー,アイなのです。

 ヒトはなぜ描くことをはじめたのか。描くこころの起源を探るため,進化の隣人であるチンパンジーとヒト幼児の描画行動について研究しています。
 チンパンジーの絵にはそれぞれ個性があり,アイのように曲線を紙全体に展開するチンパンジーもいれば,細かいタッチで色ごとに塗りわけるチンパンジーもいます。その筆さばきはなかなかのもの。描かれた線をなぞることもできます。
 ヒトの子どもだと,なぐりがきにはじまり,体と心が協調的に発達するにつれて絵が変化していきます。線をなぞるぐらい動きを調整できる子は,具体的な物の形を描きはじめているのがふつうです。けれど器用に線をなぞるチンパンジーでも,物の形を描くことがありません。線画の顔を見分けたり,文字や数字を覚えたりできるのに比べると,少し意外な気もします。
 そこで画用紙に顔を描き,片方の目だけ消しておいてみました。ヒトの場合,まだ丸がうまく描けない子でさえ「目がない」と言って目を描きいれようとします。ところがチンパンジーは,描いて「ある」目に丁寧にしるしづけることはあっても,「ない」目を補うことはなかったのです。
 2本の縦線に横線を交差させるだけで線路を描き,丸のなかに丸を組みあわせるだけでアンパンマンを描くヒトの子どもたち。一筆加えるごとに浮かぶ新たなイメージに,絵が次々と変化することも少なくありません。今ここに「ない」ものをイメージして,補う。想像力こそ,ヒトでとくに発達した能力であり,描くことの起源に関わっているのではないかと考えています。

プロフィール
 京都大学理学部を卒業後,同大学院医学研究科の修士課程を修了。東京藝術大学大学院美術研究科に進学し,博士学位を取得。日本学術振興会特別研究員を経て,現在,科学技術振興機構の戦略的創造研究推進事業(CREST)研究員。東京藝術大学非常勤講師。チンパンジーとヒトの比較認知心理学的な研究をおこなっている。著書に『恋う・癒す・究める 脳科学と芸術』(小泉英明編,共著/工作舎)。