旧学び!と美術

旧学び!と美術

「美術大好き!」人間
2011.09.28
旧学び!と美術 <Vol.47>
「美術大好き!」人間
天形 健(あまがた・けん)
訪れる人のない山頂から、錆び付いたブランコが下界を見下ろしていました。(福島県平田村)

今月のPhoto:訪れる人のない山頂から、錆び付いたブランコが下界を見下ろしていました。(福島県平田村)

 大学院生の進路相談での話しです。彼は学会での発表と投稿論文に取り組んでいる最中ですが、優れた彫刻作品の表現者でもあります。そして、表現活動を続けたいと願いながらも教員採用試験の結果を待つ身でもあります。
 「故郷に帰る事への迷いや制作と教育への複雑な心境はわかるが、半年後に修了を控えた現在の心境は?」
「いろいろとやってみたい気持ちや試してみたいことはあるのですが、僕と同じように『美術大好き!』という生徒を育てたいというのが、私のもっとも強い願望かもしれません。」
 同じ年頃であったかつての自分を思い出しながら、その言葉に感動を覚えました。
 教員の採用数が少ないため、「美術」の採用試験は常に狭き門となっています。特に本年は、震災等の影響で福島県の教員採用試験は行われませんでした。それだけに多くの学生は地元を離れ県外での採用を余儀なくされています。
 私が採用された頃の昭和50年代は、多くの地域が大量採用傾向にありました。その頃採用された教員がそろそろ退職期を迎えています。そのため採用数が多くなっている地域もありますが、東北各県では大量退職を埋め合わせるように少子化が影響しています。学生たちは厳しい「美術」の教員採用試験に挑戦しているのです。
 当時を振り返ると、私は、彼のように「美術大好き!」な子どもを育てたいと思って美術の教員をめざしたわけではありませんでした。あわよくば表現者として作家活動を続けたいという思いが強く、大学卒業後も表現活動を軸として生活を組み立て、絵画教室等で生計を維持しようとしていました。高度成長期という特殊な社会環境が、「何をしても食って行ける」という雰囲気を学生たちに与えていたように思います。
 少年の私が「美術大好き!」人間になった原点はマンガだとVol.37で書きましたが、そう育つ要因の一つであったことは確かです。ところがその後順調に「美術道」を邁進したわけではありません。美術以外にも生物学に憧れたり、冒険者を志したりした迷いの道が長かったように思います。そして現在も「自然と遊ぶ」脇道が本道より太くなったりしています。
 それでも「美術大好き!」は薄れることなく、高校卒業時に「美術道」を選びました。
 40数年前に、「美術大好き!」に育つには、マンガだけでは説明がつかない他の要因があったのかもしれません。生育環境に根ざしたもっと大きな影響があったように思うのです。「美術大好き!」とは、私にとって絵や彫刻も、工作や鑑賞も大好きでしたから、造形全般が楽しいと思えるような環境や教育があった筈なのです。
 思い当たる環境の一つが、もののない時代であったことです。
 高価な既製品や商品を手に入れようとする前に、自作できないかという試みが、まずあったように思います。家族や地域の人たちは、手作りという工夫の中で生活を便利にしたり、周囲の人を喜ばせたりすることに割く時間があったのです。そして、苦労の末に出来上がったものに周囲も賞賛したり感動したりする豊かさがありました。ですから、「買った方が安いよ」という考えは最近になってから、やっとのみ込めたように感じています。当時は材料のみならず、加工する道具すら入手困難でしたから、子どもたちも肥後守一つで遊ぶ材料を工夫したものでした。社会全体がまだまだ貧しく、もののないところから工夫しようとすることを子どもなりに学んでいたように思います。
 もう一つの恵まれた環境は、同年代の子どもが多かったことでしょう。
 仲間と集うために外に出たいと思う気持ちが常にありました。風邪で学校を休んでいても、下校時間に子どもたちの声が聞こえると発熱を忘れて外に飛び出したものでした。同じものに興味を示し、ものづくりでは知恵を出し合い、子どもルールを遵守しながらの遊びが楽しくてたまらない時間がありました。そこでは手作りの遊び道具や大人から見れば何の意味もないと思われるようなものが宝物として価値づいているのです。遊びの中には弓矢のような学校で禁止されている道具もありましたし、大人の眼の届かないところで禿げ山を滑走するなどの危険な遊びほど夢中になりました。子どもたちは自作の滑空ソリを工夫して持参していました。当然のように怪我もしましたが、子どもなりにそれらのことを充分に承知した使い方・遊び方を心得ていたと思います。
 そのような恵まれた環境が子どもたちに、ものづくりの面白さや工夫することの楽しさを味わわせ、造形への誘いとなっていたと思うのです。遠い過去のできごとではあるのですが、そこでの体験が現在でも、描画や工作が、私にとってもっとも楽しい時間に感じさせているのだと思います。
 一方で、当時の先生方も授業に挑戦的であったように思います。中学1年のとき、男子が制服のズボンを脱ぎ、素足で粘土をこねた記憶は強烈な印象として残っています。その粘土は大きな瓶に保存され授業で使われました。またある時は、スリガラスにクレヨンで絵を描く授業がありました。描画した上に糊のようなものを塗って印刷する版画の授業でした。ぎこちない描線や刷り上がりの粗末さだけが作品のイメージとして残っているのですが、その実験的な授業を忘れることはありません。
 やがて美術の教員になり、生徒とともに授業を構築しながら「美術っていいな!」という実感が指導者として縦横に広がりを見せるようになるのです。私が「美術大好き!」人間を育てたいと思うようになったのは、初任から数年を経てからのことでした。生徒たちとリトグラフに挑戦したり、粘土をこねたりしながら、私自身が変容させられていったと思っています。

【今回は、導入事例をお休みします】