旧学び!と美術

旧学び!と美術

一つことにどれほどの時間をかけられるかという実力
2011.04.14
旧学び!と美術 <Vol.44>
一つことにどれほどの時間をかけられるかという実力
天形 健(あまがた・けん)
今月のPhoto:もうひとりのマドンナです。私たちが見る位置にミレイも立ち、そして描いたのだと感じながら細部まで見入りました。(「オフィーリア」ロンドン テートギャラリー)

今月のPhoto:もうひとりのマドンナです。私たちが見る位置にミレイも立ち、そして描いたのだと感じながら細部まで見入りました。(「オフィーリア」ロンドン テートギャラリー)

 とうとう大台(還暦)を迎えてしまいました。40歳を迎えたときには、人生80年の半ばだと奮起し、50歳にして半世紀かと時の流れに感じ入り、60歳を迎えては長く生きたことを感慨し、40歳、50歳とは異なる寂寥(せきりょう)という印象が伴っている還暦です。久しぶりに小学2年生に授業をして、半世紀以上の歳の差に圧倒されたせいかもしれません。彼らが30歳を迎える頃までの人生だという現実と向き合ってしまいましたから。
 自分のことになると、時間の長さは漠として以前から掴みようがないものだと感じていました。他の人の時間に照らしながら、ようやく少しその長さが感じられるようになったと言える年頃なのかもしれません。歳を重ねるということは、誰しも初体験な訳ですが、半ばを過ぎた当たりから、以前より生きる先がおぼろげながら見えてきたような気がしています。それは、これまでの時間とその間の経験が思考や感情の基礎データとなり、周辺が少し洞察できるようになったからでしょう。教育畑から出ることのない仕事歴ではありますが、政治や経済、他の業種のことなども多少は理解できるようになっている気がしています。60年の経験が俯瞰的な見方を可能にしているのでしょう。特に、ファッションやTV番組などは、めまぐるしく変化する社会とはいえ、堂々巡りのようなサイクルが早くなっているだけだと感じるときがあります。対象が経験の少ない人たちだからこそ、新規のように通用していると思うことも少なくありません。生活環境が大きく変化しても新たに誕生する生命たちは、常にゼロからスタートして自分を生きようとします。そして、友情や恋愛の感情、成功や挫折から得る思考、そして形成される認識がその人自身をつくるのです。子ども達を見ていると、生身の人間として避けて通れない実体験からの学びの必要を強く感じます。
 そう思いながら、若い人の苦悩を相談されたり、失敗を諭したりするときには、気づかないままに”知ったか”めいた話をしてしまっている私は、まさに還暦なのでしょうか。
 おそらく、予想や助言が的中する確率が高くなることが高齢者としての自信になるのでしょう。学生が、過去の私と同じような経験をし、さほど遠くないところで似通った感情を抱いていると感じることは少なくないのです。ただ、それは、誰も同じような人生を送るものだという人生観にはつながるものではありません。「人は人生に一度だけ、すばらしい小説を書くことができる。それは自叙伝です。」という、個々に特有の人生があるからです。そんな多様な人生でも、自らの学んだことが年齢差を超えて他の人の参考となるということがあるからこそ他者との交流が楽しいのです。また、類似した事態に臨んで思考回路が同調する共感の喜びは安寧(あんねい)をもたらします。
 そんな御託の中で、還暦人が感じている若い人を勇気づけたい心境があります。
a_vol43_02 大学を出たばかりの私が、いつもせっかちに絵を仕上げることしかできずに悩んでいたころのことです。岡鹿之助展のポスターを見て、精緻(せいち)な作品に感動したのです。その頃は日本画かなと思いながら代表作「遊蝶花」を見たと記憶しています。さほど大きくない号数ですが、岡鹿之助は1年に1〜2枚しか描かないと解説にありました。その頃70歳を過ぎていた彼が、若い頃から1枚の絵に時間をかけ集中して描いていることに驚いたのです。100号に向かっても1〜2週間ほどしか集中力が持続せず、浅薄な絵を描いていた私には、1枚の絵と長時間向き合える実力を見せつけられたという思いでした。
 それは木工などの工芸作品を見る機会にもたびたびありました。木の接合や表面の仕上げ、螺鈿(らでん)やカラクリの完成度から見える集中力や巧緻性(こうちせい)に、到底叶わない時間をかけた匠の実力を思い知らされていました。
 還暦を迎えても、さほどその境地に近づけた訳ではありません。ただ、雑用や趣味、書類づくりなど、絵や工芸から離れたところではありますが、年齢とともに一つことに時間をかけられるようになっている自分を発見するときがあります。丁寧に仕事をしようとか、遠い先の確かな完成のために、焦らず着実に仕上げようとする自分がいることを感じるのです。ときには、時間のかかることを楽しく思う場合すらあるのです。
 雑事に追われる仕事環境は相変わらず若いときと同様なのですが、ゆっくり絵を描いてみたいとか、時間をかけて何かを作ってみたいと考えるようになったのです。それは歳のせいだと思っています。
 若さからくるせっかちは、歳とともに解消されていくのかもしれません。人生の半分も生きていないうちは、味わう感覚すらない程に時間が通り過ぎていきます。ところが、長く生きてみると5年・10年の単位で時間が捉えられるようになり、長時間を要する企画や集中力などのイメージが抱きやすくなるように思うのです。
 ただ、それは漫然と生きてきた私が感じることですから、そのような生き方を勧める訳ではありません。早くから時間をかけた仕事ができるようになるということは、岡鹿之助のように表現力の核としての実力を身につけるということでもあります。ひらめきや技巧に頼るだけでなく、一つことにどれほどの時間をかけられるかという実力は、納得のいく表現を保証することを意味しています。若い頃からそれができることは、多くの人にとっての理想かもしれません。
 一方で、私のように自分をスロースターターだと評価するしかない人も多いのではないでしょうか。
 学校にも、自らを生かしきれないでいる多くの子ども達がいることでしょう。丁寧に仕上げられるという観点を疎かにせず評価することの大切さを感じます。その観点は、多くの生活場面でも仕事ぶりへの評価となり、個々の信頼につながることだからです。クレヨンでなぐりがきしかできなかった子どもが、大きな画用紙と向き合ったり、手強い木と格闘したりして、稚拙ではあっても根気よく造形表現ができるという実力は、未来を保証しようとする教育の大切な営みなのです。

【今回は、導入事例をお休みします】