旧学び!と美術

旧学び!と美術

3.11への怒り
2011.03.25
旧学び!と美術 <Vol.43>
3.11への怒り
速効よりも遅効的
天形 健(あまがた・けん)
今月のPhoto:サルビア・ミクロフィラの花だそうです。おひな様に似ている可憐な花に見惚れてしまいました。(郡山市)

今月のPhoto:サルビア・ミクロフィラの花だそうです。おひな様に似ている可憐な花に見惚れてしまいました。(郡山市)

 かつて、番長と呼ばれていたY君が、福島にいる私の身を案じながら怒りの電話をよこしました。「東北地方にもっと困っている被災者がいるのに、なぜ買い占めるのだ!」という、関東圏での目にあまる食料などの買いあさりに対する怒りです。中学生の頃も話がよくわかり、説得に応じる番長ではありましたが、四半世紀を経て、私の自慢できる教え子に育っていることを実感しました。現状把握や社会認識、考えや行動の判断など、大きく成長したことを感じさせてくれました。これまでも、私が感じることを代弁してくれたり、今回のように怒りを表現してくれたりすることは幾度かありました。この怒りは彼らしい怒りだと思いながら、卒業後の社会学習、生涯学習の力を改めて考えさせられました。
 「災害に付き物の略奪と無法状態が日本で見られないのはなぜか?」という海外から寄せられる疑問に対し、私は、日本人の学習力だと答えたいと思います。学校での評価も、まず子どもたちの考え方や判断の人間性が優先されます。教科評定も決しておろそかにするわけではないのですが、評定学力がどんなに優れていても、人間的な成長が見られなければ賞賛されることは非常に少ないと思われます。また、社会や職場で、新人を迎える時なども、採用時の成績や学歴が優秀であることに注目することはあっても、人間的に優れた人であることを期待します。そして、恊働する中で、能力的に優れていることは認めながらも、集団が好むのは優しさや思いやりのある人間的に優れた人材なのではないでしょうか。

 私たちは、昭和の末期に学力的に優秀な子どもを育てる教育の実現を果たしてしまったと考えています。個々の学力向上だけを目指してきた教育の限界を実証的に味わってきた経験をもっています。知識や技術がどんなに優秀であっても、それらをどのように発揮し、社会貢献に活用するかが真の教育の目的であることを知っているのです。法とは何か、科学技術とは何か、医術とはどうあるべきか、デザインとは何をすることなのかについて、世に送り出す人材育成の中で多くを考えさせられてきました。そして、さまざまな現実に遭遇した経験から現代の教育認識が形成されてきたのです。その結果、教科学力だけが学習の評価ではなく、優れた人間性に支えられてこそそれらが活きることを知り、たとえ、成績不振であっても、人間的に優れてさえいれば、それが「生きる力」として、社会に迎えられることも知っているのです。
 近年の学力低下論は、そのような教育認識のもと、人間的に優れた人材を社会に送り出しながらも、思考するための知識や発揮される技術などが、子どもたちから低下してしまっていることへの懸念から発したものなのでしょう。けっして戦後の教育黎明期の偏差値による競争原理にもとづく教育に戻そうとするものではないはずです。
 優れた人間性とは、現代日本の教育ではルールの遵守や公共性などといった次元だけで評価できるものではありません。どんなに優秀な能力を有する人材でも、個々にその能力を発揮しようとするときの力は小さいものです。柔軟な人間関係を形成した集団の中でその能力が活用できれば、その集団の総力は、個々の能力を合わせた以上の仕事を成し遂げるのです。そういった社会力を含めた観点による人間性の評価なのです。
 過去の教科学力の評価は、学習直後にその成果を求める傾向にありました。先生が「わかった?」と児童生徒に尋ねることもその傾向を示しています。たとえ「はい、わかった。」という返事があったとしても、その記憶や理解がどれほど維持されるものなのかは疑問です。そのことを多くの大人が証明してもいます。心もとないとしか言いようのない学習成果の蓄積に対し、評価観の転換を私たちは求められているのです。

 私は、教育を化学肥料と「ウンチ」に例えることがあります。速効的な成果を求める教育とは、化学肥料を施すことに、また、遅効的な成果を期待する教育とは、忘れた頃にじっくり効いてくる牛糞や鶏糞を元肥に用いることに似るからです。
 それは決して教科学習を否定するものではありません。子どもが真剣に取り組んだ計算学習は、その蓄積によって数学的思考力を育みます。また、書き言葉から学ぶ語彙力とは、豊かな思考力や表現力の基礎となるものです。遅効的に個々の人間性を育て、環境認識や集団感覚を育てようとする教育の力を改めて考えてみる必要がありそうです。
 「なぜ日本では略奪が起きないのか?」ということへの回答は、「日本の家庭や社会、そして学校は、遅効的な教育を大切しているから」ということなのかもしれません。
 しかし、今回の東日本を襲った大惨事は、復興に相当な時間を要すると思われます。戦後生まれの人々にこれまで味わったことのない忍耐を強いることになるでしょう。
 Y君と同じ思いの人たちのネットワークは、被災者を長く守ろうとするでしょう。耐え抜かなければならない人々の心を個が結集した集団の大きな力で支えていけることを願います。