学び!と歴史

学び!と歴史

宮中の大奥
2009.09.04
学び!と歴史 <Vol.30>
宮中の大奥
―明治天皇の日常生活―
大濱 徹也(おおはま・てつや)

美智子皇后が嫁いだ世界(Vol.26参照)

 天皇の御成婚50年、即位20年を記念する祝賀行事は、美智子妃誕生の晴れやかな往時を再現することで、先行き不安な時代の空気を払拭しようとの思いをうかがわせます。天皇と美智子皇后の営みには、即位にあたり日本国憲法を遵守していくことを誓い、戦争の惨禍に思いをはせる「四つの祈りの日」を大切にし、病者をはじめ被災者に癒しの言葉を親しくかける姿に、「天皇制」という呪縛と異なる開かれた君主制への眼が読み取れます。いわば平成の天皇家は、明治維新時の「行幸」論が説いた人民に敬慕される皇室への道を主体的に歩むことで、その存在を輝かせようとしているようです。ここにいたるまでは、平民として皇室に嫁ぎ、心身を病む労苦を一身に担うことで現在(いま)在る美智子皇后の働き大なるものがあったのではないでしょうか。
 そこで新婚時の美智子妃をさいなんだ宮中の奥と言われる世界、私的な日常空間の営みはどのような世界として形成されていたのかを垣間見るべく、明治天皇をとりまく日常生活の一旦を帝国弘道館編纂『明治聖徳録 完』(明治45年5月)で紹介することとします。

一日の営み

 天皇の起床は午前6時、起床前10分に宿直の舎人が寝殿の雨戸(約1寸角の狐個格子)を開き、女官(権典侍(ごんてんじ)、掌侍(しょうじ)、権掌侍)が火鉢に檜(ひのき)造りの櫓(やぐら)で被いをかけたもので暖めておいた御衣に着替え、厠に入ります。御手水は消毒し、幾度となく白羽二重にて濾した冷水。極寒でも湯を使うことはないという。皇后は湯を用いることもあったそうです。
 天皇は朝風呂を常とし、白羽二重で濾した後に沸かし湯としたものを更に幾度も濾し、塵一つ澱まぬようになったものを檜造りの桶に汲み取って湯殿近くに運び、御前係の女官(判任)が受取って湯殿の入口まで持行き、命婦(みょうふ)が受取って湯殿に入れます。命婦が湯加減をした後、権典侍、掌侍もしくは権掌侍がその旨を天皇に知らせ、入浴となります。背中を流すのは権掌侍か命婦で、入浴後は権典侍、掌侍あるいは権掌侍が捧持せる麻二枚重ねの「御湯上り」にて身体を拭かせ、着替えます。女官が黒塗りの湯桶より菊の紋章のある茶碗に湯を注いで捧げ、角盥(つのだらい)を御前に据え、これで口を漱ぎ、女官が捧げる直径2尺程の盥で顔を洗い、髪を権掌侍か命婦が整えた後に御座所に帰ります。なお、皇后は天皇より30分程早く寝殿を出るのを常となし、後の身の回りは天皇と同様ですが、夏季には毎朝入浴をされたそうです。入浴後の髪は命婦があたり、化粧がすめば洋装が一般的で、運動後に天皇のご機嫌伺いをします。
 7時に賢所参拝、8時前後に朝食、休息後の9時に侍医の検診を受けた後、大元帥服に着替え、10時表御座所に出御、国務を処理、正午に居間に戻りて昼食、その後再び表御座所で政務を総覧。午後7時30分か8時頃に皇后と共に夕食、その後談笑、この時人民より献納の書冊などを閲覧、10時30分より11時の間に寝所に入るそうです。

奥を担う女官 「お早番」「おゆるりさん」

学び!と歴史vol30_01 宮中大奥に奉仕する女官は、典侍、権典侍、掌侍、権掌侍、命婦、権命婦等の階級に分かれ、その中に御服掛、御膳部掛、御道具掛等の諸役があり、その下に仲居、雑仕(ざふし)等というような者がおり、それらの総数は百余名にのぼったそうです。その呼称は、典侍が「スケサン」、権典侍が「ゴンスケサン」、掌侍が「ナイシサン」、権掌侍が「ゴンナイシサン」と唱され、同じ官名の場合はその上に本姓か源氏名をつけ、大正天皇の生母柳原愛子を早蕨の「スケサン」、小池道子を柳の「ナイシサン」などと呼んでおります。
 この女官の称号は、新樹(高倉寿子)、花松(千種任子 第3皇女史滋宮、第4皇女増宮生母)というような二文字名が華族出身者、柳、樗(あふち 中山栄子)などの一文字が士族出身者で、出身の族籍によって分けられていたそうです。この称呼は、上級の女官同志のもので、その下の者は上官に対しは「旦那サン」をもってし、「旦那サン」より部屋子を呼ぶには「誰それの針命(しんめい)」と言うのが常でした。
 この「旦那サン」といわれる者は、毎日毎夜の交替でそれぞれの勤務に服し、午前8時に出仕して午後10時まで大奥に勤める「お早番」と、10時から翌朝の午前8時の「おゆるりさん」からなり、退出時には各御付の針命が時間を見計らって出迎えました。
針命は、毎朝5時に起床、「旦那サン」の目覚めるまでに部屋一切の掃除、化粧道具の配列等をなし、毎日少しの遺漏なきように整頓しておきます。旦那さんが起床し、縮緬もしくは羽二重等の座布団に座すのを待ち、先ず恭しく一礼し、それよりお化粧に1時間以上を費やし、漸く食膳に向かったとのことです。
 女官生活では、天皇に奉仕するものとして、何よりも心身の清浄が重視されていました。そのため針命の中では、「御清サン」「御次サン」と、腰より上と腰より下に手を触れることで区別されておりました。ちなみに足袋を持った手で袴の紐を触れば叱責され、直ちにこれを清めさせたといいます。そのため旦那さんの御服替は針命の苦心一方ならず、その御用を務めるには膝にて歩くのが習いであったそうです。袴の紐を締めるには、長い紐を5廻り6廻りもくるくると膝にて歩き廻ることの辛さは並大抵のことではなかったとかたられています。

大奥という呪縛

 宮中は、天皇の公務にかかわる表の世界ではなく、ここに垣間見た奥によって日々が営まれていました。そこには徳川大奥物語として描かれた世界が想起されましょう。いわば明治の復古革命は雲上人の世界を巷に開放しようとした宮中革命とはいえ、明治天皇を中心とする立憲君主制を裏で支えた世界は、表の介入しえない「奥」の世界、大奥という世間の窺い知れぬある種の「闇」の存在でした。
 戦後の宮中改革は、奥をいかに開き、国民の眼にさらすかということでしたが、長い因循の帳に風穴を開けるには時間が必要でした。民間出身の美智子妃にはこの帳がいかばかり重いものであったかは想像を絶するものだったことでしょう。その心労こそは新婚早々にして病み疲れた姿にうかがえます。こうした奥の場から「天皇制」と称される日本の君主制を問い質してみてはいかがでしょうか。