学び!と歴史

学び!と歴史

荻生徂来にみる、指導者が問われること
2012.02.09
学び!と歴史 <Vol.53>
荻生徂来にみる、指導者が問われること
宰相の器とは
大濱 徹也(おおはま・てつや)

荻生徂徠のこと

『先哲像伝 近世畸人傳 百家琦行傳』(有朋堂書店)より

荻生徂徠『先哲像伝 近世畸人傳 百家琦行傳』(有朋堂書店)より

 江戸時代の儒者荻生徂徠は、5代将軍綱吉の側用人柳沢吉保に仕え、吉良邸に討ち入りをした赤穂浪士を「名分論」でなく秩序紊乱者として処分することに道をつけました。朱子学を信奉していた綱吉の死後は、柳沢吉保が隠居したこともあり、柳沢邸を出て、江戸茅場町に私宅を構え、「茅」の同義語である「蘐」により「蘐園」と称し、宋学の呪縛を脱却し、古文辞学をたちあげます。徂徠は、当時の儒者のなかでもっともよく中国の口語に通じており、儒学を原典から読み解くことができました。そのため8代将軍吉宗は、享保6年9月頃、島津吉貴(よしたか)から献上された『六諭衍義』に訓点を付けることを徂徠に命じました。
 この『六諭衍義』は、明の太祖洪武帝が民衆教化のために頒布した「孝順父母(父母に孝順にせよ)」「尊敬長上(長上を尊敬せよ)」「和睦郷里(郷里に和睦せよ)」「教訓子孫(子孫を教訓せよ)」「各安生理(各々生理に安んぜよ)」「母作非為(母に非為をなすなかれ)」という六つ徳目に、范鋐(はんこう)が平易な口語で註解をしたものです。徂徠は、この訓点をなすことで吉宗の下で政務の機密事項にかかわる「隠密御用」を仰付けられ、政務の具申をなし、『政談』を献上しております。『政談』は、後に「享保の改革」と称されることとなる吉宗の治世に期待し、政治が法と制度で運営されるべきであるとの思いを述べたもので、現在においても聞くべき政治哲学が認められています。かつ徳川の治世をささえた政治の眼が読みとれます。

執政たる者とは

 昨今の日本は、「失われた20年」云々と、政治の混迷が語られ、国家指導者に人を得ていません。そこで徂徠の言に耳を傾け、指導者たる者には何が問われるかを考えてみませんか。この営みは、一過性のマスコミを舞台に、愚にもつかない「タレント」と称する輩が発するその場その場の世間受けする言動に踊らされることなく、明日を己の眼で見極めるためにも、現在まさに求められていることです。徂徠は指導者たるべき者には何が問われるかを「重き役人の挙用のこと」として述べております。

 執政の臣は言語・容貌を謹み、下へ向き慮外をいわず、無礼なる事のなきを第一とすべし。聖賢の深き戒也。疎そかに心得るべからず。俗了簡には、才智さえあらば、言語・容貌は構わでも苦しかるまじきと思えども、さにはあらず。執政の臣は外の役儀とは替り、古の大臣の職也。「赫々たる師尹(しいん)、民ともに爾(なんじ)をみる」といえる『詩経』の文を、『大学』にも引きたるにて、聖賢の道には甚だ重き事にいえり。執政の臣は重き職分なれば、その人の詞・行作をば、下よりは万人常に心を付けて見る事なる故、一言一事をも世上にて評判し、遠国までも伝え聞きて、天下に隠れなし。されば御役を重んじて、上の御為を大切に思入れたらんは、言語・容貌に心をつけ、慎まずして叶わざる事也。
 元禄の比までいずれもこの嗜(たしなみ)ありて、言語・容貌も見事なりしに、正徳の比よりこの風衰えて、今は重々しき身持の人なしと承る。その事の起り、不学なる人の了簡はまわり遠なる事を嫌い、近道に御用を弁ぜんとし、殊に才智のある人は、その才智を働かさんとするより、容貌・言語の慎み崩るる事也。されども執政の職は己の才智を働かさず、下の才智を取用いて、下をそだて、御用に立つ者の多く出るようにする事、職分の第一なり。己が才智を働かす事は有司の職にて、執政などの職分には非ず。何ほど才智を働かせたりとも、下の才智を用いざる時は、己が才智ばかりにてたる事に非ず。然るを手前の才智を働く事、執政の臣の上にはかえっ職分の筋に違いて、畢竟不忠になる事を知らぬは、不学の過(あやまち)なり。
 言語・容貌を嗜む事は、我が身を重々しく持ちなして、外をつくろうように不学の人は思えども、これまたさにはあらず。職分重ければ身持も重々しき事第一当然の宜しき也。さようの人をば重んじ敬う事、これまた自然の道理なり。人の重んじて敬う人を上にすえて下知さする時は、下よくこれに従う。これまた自然の道理也。これにより役儀重ければ言語・容貌を嗜む事、古よりかくある事にて、全く外をつくろう筋にはあらず。言語・容貌粗末にて、下へ向きて無礼をする人は、下の才智をそだてぬ心入れなる上に、さようの人には下の心心服せざる故に、必ず政務の滞りとなり、上の思召しの筋も下へ行き渡らぬ事也。

現在、「節南山」が問いかけること

 『詩経』の引用は、無道の臣を重用する幽王を風刺した「節南山」によるもので、「厳粛であるべき大師(天子の師)の位に尹氏が在る、天下万民がそのありかたをみている」と。「詩」は、「その姿をみれば、人々の心は憂いで灼かれ、戯れの言葉すら発する気持ちになれない、国はすでに傾き衰え乱れている、どうして顧みることをしないのであろう、天意に適わず、大師に相応しくない者を用いて天の禍乱を招き、国家民衆を空乏させてはならない、」云々と、政治の乱れを糺し、国家人民を安んじるのが政治の要道だと説いたものです。徂徠は、上に立つ者に問われる器量をはかるに、己の才智によらず、下の者の「才智」をみぬき、それを用いる力量に求めました。「言語・容貌」を慎み、下の者を大切にし、その力をふるわせる作法こそは指導者たる者が身につけておかねばなりません。
 さらに徂徠は、家康が「重き御役人を仰付けらるるには、必ず下の沙汰を御聞きありて、下にてその役になるべしと沙汰する人を必ず仰付けられた」ことをあげ、「人の善悪は上よりは見えかぬる物なり」となし、下の者の眼が大切だとも説いております。
 これらの言説には、家康が創始した徳川の治世が幾多の困難がありながらも、260有余年の「平和」の世をもたらした鍵があるのではないでしょうか。現在想うに、「言語・容貌」のない人物、己の小さな「才智」に溺れた者が政治のみならず、日本の各界を跋扈しているとの感のみつのります。それだけに徂徠が説き聞かようとした指導者像、その政治哲学に学びたく想う次第です。


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『政談』
荻生徂来 著
辻達也 校注
1987年 岩波文庫 刊