学び!と歴史

学び!と歴史

被災地の社寺が問いかけていること
2012.03.26
学び!と歴史 <Vol.54>
被災地の社寺が問いかけていること
大濱 徹也(おおはま・てつや)

 東日本大震災はこの3月11日で1年が過ぎたのに、被災地の住民はいまだに明日への歩みを手にしていません。被災地に取り残された老人の餓死が報じられるなかに、人びとをめぐる協同性の崩壊が行きつくところにいった姿がうかがえます。人間が人間として生きていけるのは、単身者としての存在ではなく、ある協同性のなかにおいてです。現在、復興で問われるのは、経済的物質的支援もさることながら、被災地の人びとの精神を賦活せしめる精神の器ではないでしょうか。この精神の器を担い、住民の協同性を支えてきたのは神社であり、寺院でした。震災地の寺社等は、震災・原発事故でその存在の場を奪われたがために、住民の心に寄り添うことすらできない状況に追いこまれています。

被災地の神社

 神社本庁総務部震災対策室は、地機関誌『若木』の別冊「東日本大震災」で、地域祭祀を担ってきた神社の被災状況を次のように報告しています。

 宮城県・福島県・岩手県の東北三県では、八名の神職が犠牲・行方不明となっている。また、地震及び津波による神社施設の被害は一都一五県に亘り、本殿、幣殿、拝殿等主要神社施設が全壊、半壊した神社は、三〇九社の外、社殿以外の建物の損壊や鳥居、塔籠等の工作物の損壊に至っては、実に四、五八五社にも及んでいる。太平洋沿岸部に鎮座する神社においては、高台で辛うじて津波の被害を免れても、氏子区域が津波により壊滅的被害を受け、今後の神社運営に多大なる支障を来し、神社存立の基盤が失われかねない危機に面している。
 更に福島県においては、原発事故により立入りが出来ない警戒区域が設定され、当該区域内に鎮座する二四三社もの神社は、被害の状況すら確認できない状況にあった。

h_vol54_01

東日本大震災前の延喜式内社?野(くさの)神社

 福島県双葉郡浪江町請戸の延喜式内社?野(くさの)神社は、毎年2月の例祭「安波祭」海上安全と豊漁を祈る神輿の海中渡御が行われ、五穀豊穣を願う「請戸の田植躍り」などが奉納され、地域住民の心をささえてきた精神の器でした。この津波で宮司夫妻と禰宜夫人が犠牲となり、禰宜の安否が確認されていません。しかも鎮座地は原発の警戒区域に指定されたがため、氏子らが県内外に避難したため、神社復興の目途も立てられない状況です。これが被災地の神社や寺院が置かれた姿といえましょう。
 このような状況下、?野神社では、宮司の三女が父の後を継いで宮司就任の決意をし、2月19日の例祭日に宮司就任奉告を兼ねた復興祈願祭が斎行された由。その祭りは、基礎のみ残る鎮座地に置かれた「小社」を仮社殿となし、白い防災服をまとっての執行でした。新宮司は「避難生活を余儀なくされている多くの氏子の方々に必ずや希望の光と復興への勇気を与えるものと確信している」(『神社新報』平成24年3月5日)と、その想いを問い語りかけたそうです。
 この想いは、被災地の民とともにある神社人の心を述べたものにほかなりません。しかし神社復興への途は多難です。氏子たる地域住民の流失は、神社再建を困難にしているのみならず、神社維持への方途も難しいものとしています。かつ、神社本庁に参加していない法人格すらない多様な神社、民社ともいえるものは住民が流出していくなかで土地に放置されたままになっていることでしょう。その様相はいまだ明らかにされていません。

移転復興の壁

 このような神社の在り方は、寺院にもみられることで、住民の集団移転ともかかわるだけに、移転が急務の課題となっています。寺院神社は、檀家や氏子が移転するのにともない、新開地に移ることが経済的に困難な状況においこまれています。この問題は、読売新聞(2月28日 夕刊)が「寺社移転支援及び腰 「政教分離」悩む自治体」で取り上げられています。仙台市若林区荒浜地区は、750世帯の家屋の大半が流失し、海岸から約500メートルに所在していた浄土寺本堂が流失、約140人の檀家が死亡。ここに住民の大半は約3キロの内陸部に集団移転をはかろうとしていますが、寺の移転は資金的に困難の由。石巻市桃浦地区の洞仙寺は、住民の4割が移転を希望しており、先祖代々世話になってきた寺が移転出来るどうかは不明とのこと。
 宮城県山元村の八重垣神社は建造物がすべてが流失したため、高台に移転するに必要な資金の宛もないと宮司は嘆いています。神社や寺院は、集落の要として、地域住民の精神的結集の場として、精神の器として生きてきました。それだけに地域の復興には、精神を賦活させ、明日を生きる活力を生み育てる寺社の存在が欠かせません。
 しかし寺社移転に必要な費用は、檀家や氏子の負担とみなされ、移転費用の公的な支援がありません。その背景には、集団移転が住まいの安全確保を目的にしているために、寺などの宗教施設が対象にされていないことによります。ここには、住民移転にともなう寺社の移転を支援するために公有地を斡旋し、敷地等を無償で貸与するという方策がとれない、という「政教分離」という信教自由の原則を強調する教条的解釈の壁があります。
 想うに寺社、なかでも神社は、集落の祭祀を担い、地域住民の暮らしのかたちである文化をささえ、記憶を継承していく場として存在してきました。この精神の器が崩壊することは、地域社会の連帯を維持する場の喪失にほかならず、協同体が世間の潮流に翻弄され、流亡していくことにほかなりません。信教自由は、他者の信仰と生き方を尊重し、己の信仰を絶対視して、「政教分離」なる言説で他者の営みに干渉することではありません。地域の復興と再生には、集落が移転するのであれば、その集落を成り立たせていた世界の総体が新天地で生きていくための方策が求められているのではないでしょうか。それだけに集落の核となってきた神社や寺院の働きが新開地で生きる移住者の心の糧となることに想いをいたしたいものです。
 そこで次回は、精神の器とは何かを歴史にたどるべく、明治維新で流亡の民となった人びとが新天地に生きる場を築いていく物語を、「東北のお伊勢さん」と親しまれている福島県郡山市の開成山大神宮創世記に読みとることにします。

うつくしま電子事典「苕野(くさの)神社-安波祭-」紹介ページico_link