教育情報

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学校の自立を
2010.01.18
教育情報 <日文の教育情報 No.82>
学校の自立を
宮崎県五ヶ瀬町教育長 日渡 円

 学校の自立が叫ばれて久しいが、何故学校の自立が重要なのか?全国70万人の教職員を擁する公立の小中学校が自立し、組織の体をなし、自らの組織目標を持ち、教職員が目標に向かって動き出すことによって、最大の教育効果が生まれることは間違いない。学校を自立させることこそ最大の教育施策かもしれない。考えてみると、学校を組織的に自立させるための諸施策のいくつかが、学校評価や、学校運営協議会、コミュニティスクール等々のものだ。何も学校評価や、学校運営協議会、コミュニティスクール等々を学校に導入することが最も重要なことだと言っている訳ではない。明治以来培ってきた学校の文化に、学校の自立や組織という感覚を導入することで、今一度柱を通すことになるのではないかということである。しかし、学校現場ではどうも諸施策が関連性なくバラバラで導入されているように思われているために意図が伝わらない。逆に疲労感が漂うし、施策そのものが“為のもの”となっている感もある。
 学校の自立は何故進まないのか。何と言っても最大の原因は市町村教育委員会が自立していないことだ。もちろん、政令市や都市を含めて全ての市町村教育委員会ということではない。しかし、1,700の市町村教育委員会総体でいうと長い間の都道府県教育委員会の指導に従う癖がまだ抜けきらないでいる。都道府県教育委員会に権限のないことまでも未だ指導を待つ姿勢があるし、都道府県教育委員会自体も未だ指導を行うという姿勢から抜け切れていない。お互いに長い時間慣れ親しんできた間柄であるので仕方ないのかもしれないが、そんなことばかりは言っておれない。効果性や、費用性を考えても、教職員70万人への対策を採るより、全国33,000校の校長への対策の方がはるかに効果があるからこそ、管理職への対応は手厚いのである。更に、教育委員会つまり教育長へ対策を立てれば全国1,700で済むのである。これこそ教育界最大の効果を生む教育施策である。教育委員会制度云々よりもっと効果的な施策である。
 それでは、学校の自立は何によって測ることができるのか?大きなバロメーターがそれぞれの学校が立てる“学校教育目標”である。組織目標は連鎖することが大事であるということは誰しも分かっている。分かっているからこそ、校長は自らの“学校教育目標”に対して、各学年の“学年目標”や各学級の“学級経営目標”により具体性を求めるのである。問題はこの連鎖と具体性の流れが国、自治体と学校との間で切れていることである。何故、学校の“学校教育目標”は連鎖と具体性に欠けるのか?逆説的な言い方をすると、何故、“学校教育目標”は具体的に書けずに、「主体的に……」とか「自ら……」などと、いつまでも抽象的なものとなっているのか?抽象的であるがゆえに、目標に向かって働く教職員も目標完成のイメージがわかないし、どういう手立てで目標完成に近づけるのか、子ども自身も自身の目標完成のイメージがわかない。
 あらゆる組織は“組織目標”を持つ。学校と言えどもその例外ではない。しかし、目標が抽象的であるということでは例外である。組織が目標を達成するために3つの要素があると言われる。よく言うところの“ひと、もの、かね”である。最近はこれに“じょうほう”が加わった。学校という組織にこの“ひと、もの、かね”の三要素が与えられているかということである。逆に、学校という組織にこの”ひと、もの、かね”の三要素が与えられたなら、学校はまっとうな組織目標を立てることができるようになるということである。
 “かね”は当然予算と言うことができる。学校の予算は本当の組織目標達成のための予算なのだろうか?いわゆる“あてがいぶち”の教育委員会の再配分方式の予算である。一部裁量予算とか、総額裁量予算という手法が出てきているが、いずれも、従来からの執行型の予算であることには間違いない。学校も目標を立ててその具現化の為に予算を編成する、編成型予算への脱却が急がれる。
 “ひと”についてはどうだろうか?それなりの職員が学校には存在する。しかし、同じように“あてがいぶち”の人である。組織目標達成型の人事制度への脱却が急がれる。その入り口が、県費負担教職員の人事権の市町村への移譲であることは間違いない。小さな市町村では人事が滞留する等々の危惧が先にたつが、自己責任ともなれば教育委員会だって知恵を出すはずである。複数の市町村で人事連合を組んだり、新たな広域人事の枠組みを模索するだろう。一歩前へ進まないと何事も始まらない。日文の教育情報ロゴ