教育情報

教育情報

社会の変化と教育
2010.04.07
教育情報 <日文の教育情報 No.84>
社会の変化と教育
浜松市文化振興財団理事長 庄田 武

■ 工業化社会と教育

 日本は明治以来近代国家建設のために学校制度を整備して先進西欧諸国を手本とする工業化をめざした。明治期はまだ農耕社会の要素の濃い社会であったため封建的道徳(親孝行、長幼の序の重視、指導者への敬意等)が人々に根付いていた。政府はそれを活かしながら先進国の科学技術の移入、発展に努めた。いわゆる和魂洋才といわれる工業化の推進であったが短期間のうちに大きな成果をあげた。このような前近代的道徳観を基盤とする日本の教育制度、教育観は日本の社会に適合し、戦後の民主化の流れの中でも生き続け、日本の教育はその水準の高さ、「効率性」の面で世界から注目された。
 ところが工業化の進展の中で社会や家族の形態は次第に変わってくる。工業化社会は必然的に核家族化を促し、人々の考え方も個人主義的価値観に傾斜していくことになる。科学技術の発達は工業の生産性を高め社会を成熟化させる。著しい物質的繁栄は個人の欲望充足の可能性を高める。テレビの個人所有がすすみ親との同居は減少し、個室を得た家族は自分の城をつくる。情報の多様化は個人の行動や思考の多様化をもたらす。人々は画一化を嫌い個性重視を志向するようになる。企業も営業政策として個人単位の需要拡大を図る。学校においてはかつて日本の教育の伝統でもあり世界各国から評価された全国一律の画一教育は次第に困難となり「先生の指示に従う」、「一斉授業を静かに受ける」というような「学校文化」は徐々に崩れてきた。経済の発展とともに全国の学校で不適応生徒や教師の指示に従わない生徒、自己中心的自己主張する生徒が増加するようになった。

■ 工業化社会から情報化社会へ

 こうした傾向は科学技術、わけても通信技術の発達によってさらに拍車がかかる。パソコンやケータイ(携帯電話)は世界各地に普及し、個人にとって必要な情報の授受を通して民族、性別、年齢、地域、職業をこえた個人を社会の構成単位にしてしまう。個人の意志が集約化され生産、消費、風俗、政治の形まで変えてしまう。いわゆる情報化社会の到来である。工業化社会を支えていた核家族も個人単位のバラバラの存在になり個人の価値観による行動様式が一般化する。こうなると家族の求心力も連帯も稀薄化し家庭の教育力の低下は避けられない。個人単位の社会では地域というコミュニティも崩れ、地域の教育力は低下ないしは消滅してしまう。
 こうした新たな教育課題に対応するため我が国では1980年代の臨教審以来様々な教育改革がすすめられた。一般に未経験の新しい社会で新秩序をつくろうとする場合、従来の社会の体制や価値観に依拠することが多い。「教育改革」も過去の安定した時代を善とする立場を基にすすめられる傾向にある。ところが現実は過去の社会の変化や否定の上に出現しているのであるから既存の価値観や理念と対立することになりがちであるためなかなか成果があがらない。情報化社会というのは先進諸国も初めて経験する事態であるので日本が学ぶべきモデルもない。私たちはこの現実と正面から向き合いあるべき教育を追求していかなくてはならない。

■ 情報化社会の教育

 現在の日本では若者の様々な問題行動が指摘されるが頼もしい生き方も多くみつけることができる。自分の意志で努力している人もたくさんいる。進んで人との連帯を求めて被災地や困っている人のためのボランティア活動にとりくむ人やスポーツや趣味に生き甲斐を感じている人も多い。キーポイントは自主性ということだろう。学校教育では従来のように用意された教育内容を押し付けるだけでなく個々の生徒のニーズを掘り起こし、それに適合する内容を工夫し自主的に学ぶ意欲をひき出すことが重要である。美術や音楽等の芸術関連の授業や部活動を含めた豊富なメニューを用意することが必要である。教師は学ぶ意味について生徒を納得させる力量と情熱が必要条件である。こうした条件を満たした優れた教師によって学ぶ意欲を触発された生徒は自主的に学習にとりくみ成果をあげる。生徒の意欲をひき出す教師の力は教師自身が自主的、主体的に研鑽することが何より重要であるから上からの命令や管理強化はなじまない。国や自治体はこうした指導者の確保と物理的条件(少人数教育等の教育環境の整備)を満たさなくてはならないだろう。
 当然財政上の問題は大きいが、社会の安定化、人材育成のコストと考えるべきである。明治政府が学校制度を始めたとき、戦後6・3制教育のため全国に中学校を新設した折の財政面の労苦を考えれば今の国力からみて決して不可能ではない。
 個人を単位とする情報化社会に適合する教育は個人の能力をひき出し育てる教育本来の目標に近づく可能性をもつものと言えよう。

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