美・知との遭遇 美術教育見聞録 学び!と美術

戦争を知らない子どもたち
子ども×時代×教育×表現

それぞれの時代を生きる人々

画像:今月のPhoto 深山で紅葉する木々(福島県郡山市) 昔、大阪万博の頃「戦争を知らない子どもたち(ジローズ、北山修作詞、杉田二郎作曲 1970)」という歌が流行りました。まさしく、私たち世代が、その戦争を知らない世代でした。生まれは敗戦直後ですが、まもなく朝鮮戦争が始まり、白黒テレビの普及とともに高度成長の兆しが見え始めていた時代です。その戦争を知らない世代が、半世紀を生き、少し人生を俯瞰できる年齢に達しています。世の中では職場や地域、組織などで重要な地位に就き、他国の戦争への参加や平和を議論したりもします。その私たち世代が、もっと戦争を知らない後輩たちを観るとき、私たちが戦後に体験した多くの変化や価値を実感することなく、生きてきていると憂えることがあります。憂えてはみても自分たちがそうであったように、体験したことしか知らない後輩たちを、自分たちとの相対において、批評するようになっているだけなのです。逆に、私たちの先輩である戦中派は、戦争を知らない私たちが、平和を大事に思う世代として育つかどうかを危惧していたことでしょう。
 いつの時代も、異世代に対し、その世代の欠点だけが目についてしまうようです。それぞれの時代を生きる人々のタイプや傾向というものを充分察知し、その時代に足りないものを見抜きながらも、その時代人だからこそ持っている良さをいかに発揮させれば、社会が良くなるかということを探るべきなのでしょう。それが満足にできないままに団塊の世代たちの時代が過ぎようとしています。定年期世代が感慨深げに自分の半生とそれに続く人々を俯瞰しているのです。

教育環境の変化が生む進化と後退

 私たちは、戦後の高度成長期の中で安定した学習指導要領と学校という制度により、知育偏重傾向にあったとはいえ、識字率など世界一といえるほどの教育環境を維持してきました。そういう中にあって、美術教育も他の国に誇れるほどの内容を充実させ、授業展開の工夫が行われてきました。にもかかわらず、その研究も熱意も、やや沈静化したと感じているのは私だけでしょうか。
 学習指導要領の改訂のたびに時間数の縮減や選択教科の心配をしたり、将来的には教科としての存続すら危ぶまれたりしています。多くの努力や研究にもかかわらず、この教科が安定しないのは、技能的な教科性が学びの説得力に乏しい点があるからだと考えられます。そのことを如実に示すのが、近年の学力低下論であったように思います。ペーパーテストで示された正答率の低下が学力低下として大きく報道され、ゆとり教育の転換に至ったのです。知識や理解を主とした机上学習だけでは補えない学びがあることを痛感し、もっと子どもたちにゆとりを持たせたり、豊かな体験から生きる喜びを感じさせたりする必要があると考えたからこそ、昭和の末期にゆとり教育へとシフトしたのです。
 私たちが痛みを忘れた後にかならず戻ってしまう原点(地平)、そのスパイラルが新たな進化を生むとも考えられますが、新しい世代が、学力を原点に戻したように、平和も原点に戻るかもしれません。人間のぬぐいきれない闘争の性を私たちは再び感じようとしています。

平和を希求する大人に成長するために

 戦後、美術教育がもっとも大切にしたところは、自由画という思想であったように思います。その自由画の裏には「創造性」というものが内包されていて、子どもたちが豊かに創造しようとする意欲の中に、自らを高めていく学習の活力を見出そうとしたのです。豊かに生きようとする子どもたちの未来を大人たちの単純な知覚で歪めてしまってはいけない、子どもらしく生きようとする時間を大人の合理主義で削ってはいけない、と思いながら、美術教育のよさを生かす学習方法を多くの先人たちは求めたのです。それは、ある時期、大成功し、いまも私たちの美術教育の考え方の大部分をその自由思想が占めています。
 そのことは、自我に目覚める前の幼い子どもたちに対しては、100パーセントに近い適合性を示す、優れた子どもの発達認識であり、教育研究であったように思います。ただ、私たちが教育を語るとき、幼児や児童のことだけでは語り尽くせない大人世界に誘う生涯学習への視点が一方では必要なのです。
 生涯学習の入り口である中等教育を受ける生徒は、自我に目覚め、先生の評価より前に、自己評価できる年齢に達しています。また、その評価観も相対的となり、しっかりとした客観性が伴うことも多いのです。個々の考えを持ち寄り、表現と反芻を繰り返す中で私たちはより正答に近づくのだと思われます。

 戦争を知らない子どもたちが、闘争心の地平に戻ってしまうことなく平和を希求する大人に成長するには、世代間の学び合いや確かな伝承方法の確立が欠かせないのです。改めて造形教育の必要と、学び合いの手段としてのすばらしさが見えてきます。個々の表現力が脚光を浴びる時代がすぐそこにあるように思うのですが。