美・知との遭遇 美術教育見聞録 学び!と美術

子どもたちの「思い(想い)」

 研究会等に参加して、実践報告や協議の中で先生方がよく用いるキーワードの一つ「思い」が気になっています。特に、小学校の研究会で多用されるようです。先月号(Vol.21 学びの意味)の「学力」同様に、その「思い」や「基礎・基本」「情操」といったキーワードについても、共通理解のもとに研究・協議が行われるよう、美術教育からの視点として共通認識を得る機会が必要だと感じています。
 今回は、その「思い」について考えてみたいと思います。

画像:今月のPhoto 近海マグロ(紀伊勝浦漁港)

 「思い」の語義は多様です。「気持ち」「感情」や「意図」「考え」などと言い換えても通用する場合があります。それだけに、具体的なことばに置き換えない方が、そのすべてを含めた意味になるということもできます。広辞苑等によると「思い」とは、1)思う心の働き、2)心に掛けて煩うこと、3)事物に働きかける気持ち・願望、4)事物から感じられる心の状態、等に整理できそうです。それらに過去の思い出や未来への希望などの時間軸も加味すると、相当広範囲な考えや気持ちを包含する言葉であることがわかります。
 子どもも含め、私たちは常に何かの「思い」を抱いています。それは上記1)2)に当たるヒト特有の複雑で多様な感情や思考であると考えられます。それを文字で表すよりも絵などに表す方が適切である場合に造形的な表現が選ばれます。また、生育環境や体験差によって、同じ事物に対しての印象や価値が個々によって異なる上記3)4)の「思い」も表現主題として重要な意味をもちます。表された作品を見て、自分との感覚的な共通点を感じたり、思いもよらない興味や価値に触れたりすることは、鑑賞の楽しみです。
 この「思い」が純粋に子どもから発せられたのではなく、指導者の願いや意図によって演出されていると感じられた場合、子どもの主体性が見えにくい作品として、審査会等で嫌われる情況を幾度か経験しました。特に、発達年齢にふさわしくない高度な表現について嫌う傾向が強いようです。表現に向けられる「思い」とは、作者である子どもの「子どもらしさ」や個々の特性として表される必要があるようです。
 そうすると、私たちは、子どもの「思い」とどう向き合い、指導すればいいのかという課題に直面します。子どもが自宅で絵を描いて一人遊びをしたときの作品と、図画工作の時間に教室で描いた作品とは、同じなのでしょうか。指導者がいるといないでは、表現にどんな影響があるのでしょう。

個々の発達は一律ではない

 ここで大切なことは、まず、子どもの個々の発達が一律でないということ、発達によって「思い」の質が変化・成長するということです。個性を前面に掲げる美術教育において、指導する子どもたちのタイプや経験値による「思い」の違いを感じ取り、一人一人にフィットした評価と指導を行うことが重視されます。ところが一方では、発達と表現の関係において、3歳は3歳らしく、10歳は10歳らしく表現することが期待されます。それは、その年齢の一般的な認識力・表現力に明らかな共通性が認められることが多いからです。また、学習や表現体験は、途中を端折って表現力の健全な成長が期待しにくいからという考えもあります。
 幼児期には幼児期を経験し、反抗期には反抗期を体験して思春期が成立するように、表現にも形や色、空間、心情といった多様な「思い」の成長と認識の深まりが伴って、その子らしさの表現が成立すると考えられます。その3歳らしさと、その子らしさという点において、双方が同時に成立する場合と矛盾する場合とが同梱なのではないでしょうか。
 子どもの全ての能力から見ると、造形的な表現に用いられる能力は部分的な発達が顕在化したものと捉えることができます。3歳が2歳らしく描くことがあっても、10歳が8歳程度の表現をしていても、全人的にその児童を指導・評価する指導者は、重大な発達の遅れとして、そのことを評価しないかもしれません。おそらく、個々がそれぞれの分野(教科)で総合的にどのような成長が見られるかというトータル評価を大切にしているはずです。

一歩先を示す教育

 子どもたちが、将来を見据えて大志を抱くことは大切です。大願成就まで紆余曲折はあっても、大筋で進むべき方向を違えない意味でも必要でしょう。ところが、大人のように社会や人生を俯瞰できない子どもにとって、志とはそれぞれのイメージでしかなく、具体的に次の一歩をどちらに踏み出せばいいのか見えていないときが多いと思われます。教師にとっても、最善の道、あるいは遠回りが有効な道筋などは、不明であることの方が多いはずです。それは、縮図のように、表現指導をする児童生徒と教師の姿でもあります。教師は、子どもの「思い」を丁寧に探りながら、個々の表現意欲・学習意欲を刺激する一歩先を示す存在なのではないでしょうか。一歩先を示されることに依存する心配もありますが、教育の目的は、子どもたちの自立・自律であるはずですから、子ども自らが、試しに一歩踏み出してみたり、一人歩きを始めたりすることが、求める児童生徒姿です。踏み出す方向を間違えず、試行錯誤しながら我が道を見いだし、歩き回れるようになる姿を見届けるのが教師の役割です。
 「思い」を、子どもは表現に向けるとは限りません。「思い」を抱いている自覚や、「思い」を色や形に変換してみようとするヒントは、表現好きにさせるための重要な誘いとなります。子どもたちの能力が芽吹く大地は、常に指導者の撒く肥料を欲しています。

 

次号より内容がバージョンアップ
― 指導者からの導入事例がスタートします ―

授業実践の醍醐味は、導入に凝縮されている場合が多いのではないでしょうか。導入には、クラス傾向の把握、学習意欲の高揚、学習目標・内容の伝達等の目的があり、指導者の力量が詰まっているものです。にもかかわらず、それを知るには、直接、その指導者の授業を見る以外にないのが実情です。教科書の指導書や指導案集からも伝わりにくい部分です。  
次回から、教職経験豊かな先生方にお願いして、導入の事例集となる内容を企画したいと考えています。ライブ感覚をどこまでお伝えできるか未知数ですが、ご期待に添えるよう努力したいと思います。