大濱先生の読み解く歴史の世界-学び!と歴史

世界をどのように見るか

多賀城の碑文から~ヤマト王朝

 日本列島の住民にとり世界はどのようなものだったのでしょうか。結婚式で仲人が新婦を称える「三国一の花嫁」の三国は、日本人にとり、本朝(日本)、震旦もしくは唐(シナ)、天笠(インド)が世界であったことを物語っています。唐は、明治になっても、外国の代名詞のようにもみなされていました。ちなみに海外に行くことを「からゆき」と称しています。まさに四囲を海に囲まれていた列島の住民は、閉ざされた空間の中で「三国一」と己の世界を位置づける一方で、海によって広く世界にはばたく想像力を身につけていたのです。

 宮城県の多賀城の碑文は、蝦夷の地とみなされた東北日本の住民にとり、世界がどのようなものかを述べています。碑は、724(神亀元)年に鎮守府将軍大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)によって設置され、762(天平宝字6)年に藤原あさかつが改修したもので、「京を去ること一千五百里、蝦夷国の界(さかい)を去ること一百二十里、常陸国の界を去ること四百十二里、下野国の界を去ること二百七十四里、靺鞨(まっかつ)国の界を去ること三千里」と記し、奈良の都に樹立された律令国家の蝦夷支配の前進基地多賀城から見た世界の範囲が描かれています。靺鞨とは、沿海州から黒竜江下流あるいは松花江にかけて居住するツングース族の系統で、3世紀前半に強力となったゆうろう、5世紀以降に台頭する勿吉(もつきつ)国、そのなかから自立したのが靺鞨国で、やがて栗末(そくまつ)靺鞨が8世紀に渤海国を起こし、黒水靺鞨が女真と称しました。女真は1019(寛仁3)年に筑前・壱岐・対馬を襲撃します(刀伊の入寇(にゅうこう))。

 東日本の住民は、太平洋側の陸奥の蝦夷が「夷」、日本海側の出羽の蝦夷を「狄(てき)」、越後のエミシを「蝦狄」となされたように、中国王朝の華夷観念になぞらえて位置づけられています。こうした蝦夷がみた世界は、ヤマト王権の展開史として説かれてきた「国史」に呪縛された「日本史」像と異なる歴史を、列島史として可能にするのではないでしょうか。

 蝦夷の世界は、蝦夷地北海道と同緯度、たとえば北緯43度線を西にたどれば、中国東北部の長春、モンゴル高原、新疆(しんきょう)ウルムチ、中央アジアを経てカスピ海、カフカス山脈を越えて黒海を抜け、バルカン半島のブルガリア、旧ユーゴスラビアから地中海、イタリア半島中部、フランス南部を通って大西洋につらなる世界です。まさに多賀城碑に見られる靺鞨国の世界は、この緯度線上に展開した民族国家の興亡の物語に連なるものにほかならず、蝦夷の目で列島の歴史を読み直すことを可能にするのではないでしょうか。

 歴史を問い質す作業に求められるのは、己が生活の場から明日を読みとる営みをめざし、ヤマト王権史観ともいうべき中央が辺境を統治していく物語としてではなく、辺境に位置づけられた民の目で世界を読み解くことです。そのためには、多賀城碑が描いた世界をふまえ、京の物語としてではなく、東北の大地に生きた蝦夷の目で列島史を読み直したいものです。こうした歴史への目は、吉備、出雲、熊襲(くまそ)、隼人の場から、「日本史」像に挑戦することでもあります。

 思うに日本史として語り聞かされてきた世界は、ヤマト王権の自己展開史としてあり、天皇の物語に収斂されていきます。そのため列島の物語は、海に閉ざされた世界として語られ、自己完結する歴史像を提示してきたのではないでしょうか。ここに世界がどのように見えたかを問いかけたのは、北緯43度線を旅したように、己が生きる場をふまえ、いかなる世界を想像し得るか否かが歴史を読みとる上で欠かせない作法と思うがためです。歴史家には、時間と空間を旅する人として、時空を飛翔する豊かな想像力が求められます。ここに己が見る場をみつめ、列島に生きた民の世界に思いをはせたいものです。

「多賀城碑」(重要文化財)

所在地:
宮城県多賀城市市川字田屋場54
多賀城南門近くにある小さな堂の中に立っています。
内 容:
高さ196cm、最大幅92cmの砂岩。
碑面をほぼ真西に向け立てられています。
碑面には141字の文字が彫り込まれており、、都(平城京)、常陸国、下野国、靺鞨国、蝦夷国から多賀城までの行程を記す前段部分と、多賀城が大野東人によって神亀元年(724年)に設置され、恵美朝狩によって修築されたと記す後段部分に大きく分かれています。
また、「壺碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれ、江戸時代初めの発見当初から歌枕「壺碑」と結びついて広く世に知られていました。
松尾芭蕉も旅の途中にこの碑を訪れ、深い感動をもって対面した様子が「おくのほそ道」に記されています。
日本三古碑のひとつに数えられています。

詳細は宮城県多賀城市Webサイトをご覧ください。