学び!と美術

学び!と美術

いろんな子どもたちが生きる時間
2012.10.10
学び!と美術 <Vol.02>
いろんな子どもたちが生きる時間
奥村 高明(おくむら・たかあき)

art2_vol2_01 前回、「図工や美術が今できること」の考える手がかりを提供したいと書いた。大それたことを言ってしまったと、かなり後悔している。しかも、2回以降の内容まで予告している。今回は「いろんな子どもたちが生きる時間」? 苦し紛れに書いたことだが、しょうがない。こうやって自分を追い込んでいくのは悪い癖だ。あきらめて、思い付くまま書いてみよう。

 図工や美術は「いろんな子どもたちが生きる時間」である。
「生きる?いや、どんな時間でも子どもたちは生きてるよ」
「図工や美術だけのことじゃないし…」
 「生きる」には「生存する」「活動する」「生活する」「効果を発揮する」「更新する」など複数の意味がある。文字通り生きて活動するのであれば、その通りだ。ただ述べたいのは、図工や美術が子どもの在りようにどう関わっているかである。「新しい私を生きる」、「ともに生きる」などいろいろ言いたいが、本稿では、「いろんな私を生きる」ということについて取り上げたい。

 具体的に考えよう。ギャラリートークをしていると、よく言われることがある。
「あの子、いつもはしゃべらない子なんですよ。」
 国語の読解とギャラリートークの学習形態はそれほど変わらない。学級担任としては、いつも「発言しない子」がたくさん発表して驚いたようだ。「それが美術のすばらしさですよ」と即答したいところだが、それでは話が終わってしまう。少し丁寧に検討してみる。
 実は、この先生の言葉には「その子は授業中『発言しない子』だ」という前提がある。それは学習の当事者である子ども自身の評価ではない。指導者の実践や学校制度をもとにした評価である。意地悪く言えば、自分の授業は棚上げにしている。授業では問いが方向づけられていたり、解が一つしかなかったりすることが多い。高学年にもなれば、自分が答えられるか、答えられないか、すぐ分かる。そんな学習の状況が、休み時間はおしゃべりな子どもを「語らない子」にしているのではないか。「発言しない子」という言葉は、授業の属性を子どもの属性にすり替えていると考えられないだろうか。
 「私」という概念は、文化や社会、制度や状況などをもとに、その都度、構築されている。例えば私自身、職場では多弁な先生だが、家では寡黙なお父さんだ。留学生は、国語の時間は外国人になるが、体育の時間は普通にスポーツを楽しむ人になる。「私」は流動的で可変的な実践である。そう考えれば、他の授業では「発言しない子」が、美術鑑賞でよく「発言する子」になるというのは、それほど不思議なことではない。
 美術作品には多様な意味が含まれている。解釈の幅があり、その多くは見るものに任せられる。その特性を生かして解釈を創造する現場がギャラリートークだとすれば、よほどでもないかぎり発言は「間違い」にはならない。そのことを、絵を前にした子どもは直観的に分かる。「ああ、何を言っても認められそうだ」「ぼく、いろんなこと考えられるよ」。語る自由を学習の当事者である子どもは知っている。だから「いつもはしゃべらない子」がよく発言する。いろいろ思い付いたことを素直に語る。「発言しない子」にはならずに、いろんな子どもたちが、いろんな「私」になれる。自分も同じように、図工の時間にそういう子どもたちを山ほど見てきたし、体験してきた。
 しかし、今の学校制度では朝から夜まで硬直的な「私」を生きる時間が圧倒的に多い。その外的な属性が、いつのまにか個人の属性として同定していく。それを「解放する時間」というのは言い過ぎだと思うが、図工や美術が「いろんな私を生きる時間だ」くらいは言えるだろう。もちろん、このようなことは他教科でも言えるので断言はできない。
 「美術は分からない」とよく言われる。しかし、それが多義性を意味するのだとすれば、学習として、むしろ重要な要素となっている。多義的に私を生きる時間。そんな時間が、子どもたちには必要だと思う。