学び!と美術

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「造形遊び」への想い~第4回:教師の関わり方と在り方
2022.01.11
学び!と美術 <Vol.113>
「造形遊び」への想い~第4回:教師の関わり方と在り方
奥村 高明(おくむら・たかあき)

 先日、造形遊びの授業に「補助者」として入ることがありました。久しぶりに小学生の授業に入ったので焦るし、滑るし……。その顛末から、改めて見えてきたのは、教師の関わり方と在り方でした。

1.題材について

 題材は、校内の暗い場所で、懐中電灯を「何か」に当てることから始まる高学年の造形遊びです(※1)
 学習指導要領的にいえば、「場所の特徴を生かした光と影の動き、奥行きなどの造形的な特徴を理解」しながら「造形的な活動を思い付いたり、周囲の様子を考え合わせて空間を構成したりする」内容です。「友人とイメージを調整しながら共有したり、新しいイメージをつくりだしたりする」など〔共通事項〕の視点も大切なポイントです。
 しかし、授業が終わってから、このようにもっともらしく学習内容を書くのは「楽」ですね……。子どもたちは、確かにそれを実践していたのですが、「補助者」である筆者の頭の中からは、そんなことは消え去っていました。目の前の状況に対応するだけで精一杯……ええ、教師なんてそんなもんです(居直り)。

2.授業の実際

前半「いくら提案しても役に立たない」

 まず、子どもたちは、扇風機にライトを当て、その影に歓声をあげたり(写真1)、作品棚を照らして壁に模様を写して楽しんだりしていました(写真2)。

写真1写真2

 筆者は、そんな活動をしている子どもたちのそばに近づいて「こんな方法もあるんじゃない?」と話しかけたり、子どもたちがやったことに、もう一つ要素を加えたりします。
 例えば、扇風機に光源を加えて影を多重にしてみせたり、ホワイトボードを二枚組み合わせて映る影を変化させてみたり……(※2)。でも、後ろを振り返ると、子どもはもうそこにはいないのです。
 「あれ?……」
 子どもたちは、すぐに場所や部屋を変えるのです。何かに光を当てるのもほんの数分で、「補助者」の提案や助言は、ほとんど空振りです。
 子どもたちから相手にされない寂しさを感じつつ、「やばい……このまま終わるんじゃないか」と不安になりました。光を何かに当ててその影を楽しむだけなら、それは低学年の学習内容だからです。

中盤「子どもが助言を取り入れ始める」

写真3 しかし、心配は無用でした。40分を過ぎたあたりから、子どもの活動が少しずつ変化します。一か所にとどまって、光と影の具合を調整し始めるのです。例えば、作品棚を組み合わせてより複雑な影をつくろうとしたり、ガラス瓶がつくる影の不思議さをじっくり味わったりします(写真3)。それは、自分たちの感じたよさにこだわって活動を工夫する様子で、中学年によく見られる姿です。
 筆者は、「どうせ相手にしてもらえないだろう」と思いつつも、「光を上下に動かしてごらん」と言ってみます。すると、子どもはその助言を取り入れてくれるではないですか!「左右はどう……?」。これも、やってくれます。
 そうです、そうです。思い出しました。提案というのは、「子どものやっていることを後押しするような感じ」がいいのです。子どもたちは「自分のやっていること」を理解した上での助言は「聞き入れて」くれます。このあたりから、鈍っていた「授業勘(感)」が戻ってきたような感じがしました。

後半「活動が高度に展開する」

 その後、活動はより複雑になっていきます。
 ガラス瓶の複雑な影に興味を持った子どもは「小さいものに光を当てて、大きな異空間をつくりたい」と話しかけてきました。単に光を当てているのではなく、空間という意識を持って活動しているようです。それは光と影、空間の関係をとらえた高学年らしい概念だといえるでしょう。
 そして、図書室にいってブックスタンドに光を当て始めます。筆者もブックスタンドを本棚から次々と引き抜いて、その子に提供します。ブックスタンドの影は、光を当てると動いて街のように見えたり、花のようになったりするなど、本当に異空間が生まれたようでした(写真4、5)。

写真4写真5

 その様子を見て改めて思い出したのは、造形遊びでは、あらかじめ「材料がある」わけではなく、子どもが「材料にする」のです。あらかじめ「場所がある」のではなく、学習活動の中で「場所になる」のです(※3)。「光と影の動き、奥行きなどなどの造形的な特徴」、「友人とイメージを調整しながら新しいイメージをつくりだす」などは、子どもの活動から成立する学習内容なのです。
 このあたりから、筆者は、ようやく自分が学習の一部になってきた感じがしてきました。それは、何かを指導するというよりも、子どもと同調しているような感覚です。子どもと顔を見合わせたり、話をしたりするなど、一緒に遊んでいる気持ちもします。そういえば、孫と遊ぶ時もこんな感じだなあ……。
 最終的に子どもたちの活動は、撮影用のタブレットに空間をつくりだしたり(写真6)、体育館のロープを使って動く光の柱を生み出したりするなど(写真7)、大人たちが予想もしなかった学習活動を展開していきます。この段階になると、「補助者」の仕事も「凄~い!」「不思議!」など称賛ばかりになります。

写真6写真7

3.関わり方と在り方

 授業を終えてみると、学習は図のように、前半は試行、中盤は工夫、後半は爆発という三つのステージで構成されていました(図)。子どもたちの活動が活性化し始めたのは、授業の2/3程度の位置で、それは経験的にも納得できます。また、子どもたちは常に「4時までだよね」「あと10分だよ!」「分かった!」など言い合っており、時間のマネジメントもしていました。時間も活動の資源として働いていたようです。
 このような子どもたちの活動に対して、筆者の関わり方は、第1ステージは「打ちっ放し(※4)」、第2ステージは「後押し」、第3ステージでは「補助と称賛」です。もちろん最初からそう意識していたというよりも、あくまで振り返ってみたらそうだったという「後付け」的な話です。
 当初、どこか傍観者的で焦っていた自分も、次第に子どもたちの役に立つようになって、最後には子どもと一緒に「つくりだす喜び(※5)」という美味しい果物を味わうことができました。造形遊びにおける教師の関わり方は、子どもたちの学習に同化していくことが大事なのかもしれません。喩えれば、ライブで観客と演奏者が一体になっていくような感覚です。この感覚を一度味わうと教師という仕事が辞められなくなるんですよねぇ……。

 教師は手立てや補助などを「無かった」かのように語る傾向があります。あたかも子どもだけが学力を発揮して作品がつくられたように説明するのです。子どものすばらしさを伝えたいからなのか、子どもの能力を評価するのが仕事だから、あるいは今回のように同化しすぎて自分の存在が自覚できないからなのか、原因はよく分かりません。
 でも、一つの学習には、教師が様々な手立てを講じている姿や、学習と同化して子どもと喜び合っている姿などが含まれています。それは、うまくいこうが、そうでなかろうが、教師の正直な在り方であり、人々が織りなす縁起的な学びの一つの貴重な側面だろうと思います。今回、久々に授業に入ってみてそのことを実感した次第です。

※1:日本文教出版『図画工作5・6上 見つめて 広げて』pp.44-45(2019)「光と場所のハーモニー」の発展的な内容です。
※2:言い訳~日頃「知識や技法の提案をおそれる必要はありません。大事なのは提案するかどうかではなく、子どもたちが主体的になっているかどうかです。」と、偉そうに助言している立場としては、当然の行為かなと。
※3:造形遊びでは、時折、教師が指定した場所をビニルシートやテープなどでつくりかえるという「絵や立体」のような展開が見られます。
※4:「打ちっ放し」という表現は、押し付けないという意味でもあります。採用してくれるかどうかは子ども次第ですから、無駄玉でもたくさん打つことは必要でしょう(※3参照)。また、子どもたちもこの時点ではいろいろ試してみることが活動の中心で、追求することが明確になっていない段階なので「後押し」も成立しにくいです。
※5:学習指導要領教科目標