学び!と共生社会

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教科教育とインクルーシブ教育(3) 図画工作、美術教育をめぐって②[対談:跡見学園女子大学教授 茂木一司先生]
2022.04.26
学び!と共生社会 <Vol.27>
教科教育とインクルーシブ教育(3) 図画工作、美術教育をめぐって②[対談:跡見学園女子大学教授 茂木一司先生]
大内 進(おおうち・すすむ)

 この欄では、新たにインクルーシブ教育と教科教育について探っていくことにいたしましたが、その第一弾として、前回から「図画工作」、「美術」の教科を取り上げています。
 跡見学園女子大学(前群馬大学)の茂木一司先生が編集代表としてまとめられた『視覚障害のためのインクルーシブアート学習 基礎理論と教材開発』(*1)という書籍では視覚障害からスタートして、小学校、中学校のアートにかかわる教育や学習につながる様々な提案がなされています。
 そこで、この書籍の紹介とともに図画工作及び美術教育とインクルーシブ教育について考究するために、茂木一司先生をお招きして対談を行い、その内容を、2回にわたって紹介させていただくことにしました。今回のその後編となります。

「視覚障害から美術教育の改革する!?」

【大内】 本書の出版コンセプトの一つとして、「アート/教育は共生社会構築の基礎になるべき!」ということで、本書は、視覚障害教育におけるアート/教育について書かれた書物であると同時に、通常の学校も含めてインクルーシブ教育とアート/教育の在り方についての提案型の書物にもなっています。次にこの点について伺いたいと思います。茂木先生は、「視覚障害から美術教育の改革する!?」と提起されています。このことについてお話しいただけますか。

跡見学園女子大学教授 茂木一司先生【茂木】
 「インクルーシブアート教育/学習」の提案
 この本のタイトルになっている「インクルーシブアート教育/学習」は私の造語です。私は美術教育を専門的に取り組み始めて40年以上になりますが、学校の教育の中で美術教育の置かれている状態は、必ずしも良いわけでありません。その改善のためにいろいろ工夫してきたのが自分の研究や実践ということになります。学校教育の中での美術教育が全体的に縮小されていく中で、学校だけではとてもやっていけないだろうなと思っています。美術館をはじめ社会教育や生涯学習と呼ばれる分野など学校外にも学習の場を広げ、生涯に渡って、アートを通して、みんなが共に学び豊かに生きていくことが必要なのではないかと思っています。
 今、ロシアがウクライナに侵攻していますが、(周知のように)ハーバード・リードは(美術教育を)『平和のため教育』と特徴づけました。リードが描いていた世界観は芸術が人を優しくするという考え方です。蛇足になりますが、(ヒットラーやロシアの指導者など)芸術のそういう特性を逆利用している例も見られます。芸術が人を幸せにするのは、美しいものが心を穏やかにして優しくするからです。そういうことを考えていくと、共生社会と呼ばれるもの、社会をインクルーシブ化していく、そういう社会をつくっていくときに、私たちはアートを基盤にした方が良いのではないかと非常に強く思うのです。
 でもその時のアートというのは、今、アートの業界の人たちが言っているものとは、ちょっとイメージが異なっています。アート業界や周辺の人たちは、たぶんアートをモノと技能だと(意図的に)定義しているのではないかと思います。うまい/へたですね。でも、アートは、そういうものではない。本当のアートはそこにはない。私たちがアートだと言うのは、少なくとも私がアートだととらえているのは、モノでなくコト(出来事)をつくることでもっと身近なものですね。生活の中、あるいは自分の頭や心や手足から生まれ、その中にあるもので、言ってみれば生きることそのもの、アートは生きることの身体技法なのです。それが美術教育を支える本当のアートだと思うのですけれど、そういうものとしてアートをとらえなおす必要があるのではないかと思うのです。
 今後の共生社会において、アート教育に何ができるのだろうかと考えた時に、差異や多様性、(近代以降の人間が獲得した)自分の考えを表現し、人に伝え、自分が発信源になって生きていくことができる(自己同一性、自己原因性)感覚、そういうものを活かすことができるアートこそ、これからのインクルーシブな社会の基盤になるべきなのではないか、それを言語化したのが「インクルーシブアート教育」ということばです。
 だから、これは研究でもあるのですが、ある種のプロパガンダ、実践を伴う改革運動のスローガンだと自分では考えています。
 美術はモノだけではなくて、考え方、コトでもあるということ
 視覚に障害がある、特に見えない人というのが、実際に美術を学ぶって何をすることなのかと考えた時に、美術教育をその人たちが学ばなければならないことがもし苦痛だとしたら、そうではない美術を提供しなければいけないわけですよね。そうすると、当然ですけれど、見えないわけですから、触れるものしかわからないとなった時に、さっき言った「美術は考え方だ」、「考えること」だということが生きてくると思うのです。美術=コンセプト、つまり、美術はモノだけではなくて、考え方、コトなのだということ、そのことを美術教育に携わっている人たちがもっときちんと考える必要があるのではないかと思うのです。
 現行の教科書を見ても、やはり、当然ですけれど、見える人だけのものになっています。見えないアートの奥に潜んでいるものは何なのかを、もっと想像できるような内容にするべきではないかなと思いす。美術の専門家(作家や理論家、ギャラリストなど)だけではなく、私たちがもっと身近なものとして美術をとらえられるようなアートの教育というのが、教科書に見える化されるべきなのです。そんなことを考えて、実際に、見えない人向けの教材研究をしてみると、非常に見落としてきていたことが多いのです。例えば、混色というのは、絵具だけでなく光(の混色=加法混色)なんだということ。(見える人の美術教育だと)あまり意識しないのですが、(見える・見えない人が共に学ぶ)インクルーシブアート教材研究を通して多く発見がありました。つまり丁寧に(美術/アートとは何かという探求を)やっていかないと、(その教育は)見えるものも見えてこない。視覚は、サーッと表面を撫でて理解したつもりにさせるのですが、触覚やその他の感覚というのは、もっと奥にあるものをつかんで理解しようとする、この違いをしっかりとらえて美術教育を改革していく、アートの教育を深く理解していく、そのことがこの教育を広く届けるために役立っていくのではないかと考えました。
 しかし、これはなかなか難しいですよね。もともと美術とか芸術というのは見えないものを見える化することにその意味があるし、その奥にあるユングが言うような集合的な無意識の世界、私たち人間が輪廻転生を繰り返し、地球を命あるものにしていく時に生まれる広大な無意識の世界を耕すために美術教育、あるいはアート教育があると仮定する時、学習指導要領のレヴェルがそこまで踏み込むことは難しい。やっぱり、他教科と区別するための(見える)色と形の教育が精々かな。でも、色・形で見る観点が強調されすぎているのは誤解を与えるのではないかと私は思っています。そんな表面的な見方をしたら、その色・形の奥に隠れているものが見えなくなってしまうのではないでしょうか。ハーバード・リードが『平和のための教育』で言ったところの本当の教育の意味が、色・形にあるのだったら、とっくの昔に問題解決できているはずです。それが分からないから、なかなか平和が訪れない……。言い過ぎたか(笑)。
 与えるアートから揺さぶるアートへ
 それから、障害児教育とか福祉には、アクセシビリティという言葉がありますけれども、現場では、その人たちのためにやりやすくするようにあらかじめお膳立てするという考え方が非常に強いですよね。特別支援教育と呼んでしまっているせいもあるかもしれませんが、障害児教育は、支援性が非常に強くなっています。支援性をもうちょっと弱くしないと、障害児がアクティブに学ぶことがなかなかできにくいのではないかということもあります。
 アートを使う意味は、そこに揺さぶりをかけることなのではないかと思います。簡便さを求めるだけではなくて、正しいのか正しくないのかということも含めて、価値観を揺さぶっていく、そのことにアートの意味がある、あるいは、アート学習の意味があるんじゃないかなと思うわけです。これが、私がインクルーシブアートという言葉をつくった意味であるし、ある種の目的なんですね。しかし、この「インクルーシブアート」という用語の普及が目的というわけではありません。それでは本末転倒になってしまいますから。
 (美術教育のこれからについて)3月上旬に美術科教育学会のシンポジウムがあり、そのテーマは「社会の変化、アートの変容、美術教育はどこへ」でした。千葉大の神野伸吾さんが全体のコーディネートをし、「アートが変わっているのに、美術教育も時代を反映し、色・形だけで考えようとするのは物足りないのではないか」という論旨でした。結構な反応があって、非常に面白かったです。短時間に子ども観、学習指導観…などの論点が提出され、(自分には学習指導要領を中心に置いた論点に照らして)守旧的な考えを炙り出したように感じました。
 アートの在り方というのは、上から何かを押しつけて、全体を築くために指針を与えていくものではありません。個人が持っている小さい価値観、かけがえのない価値観みたいなものを深く追求していくことによって、それが地続きに大きな物語につながっているのだということを現在多くのアートが表現しようとしていますが、そこにこそアートの意味があると言えます。今、個人が自由に生きられる時代を、アートはよく表しているわけです。そういうことを美術教育の方でも、拾っていく必要があるのではないか。こんなアートがいいんだよと、見本みたいなものを見せてしまうのはとても危険だなと思うし、貧しくなってしまうのではと思うのです。アートを丁寧に考えていく活動は、つまり個人の外面と個人のカオスモスというのか、内と外が一体化するような世界観みたいなもの、すなわち常に全体を意識したような学習というのが必要なのではないか、そういう感覚を持つべきなのではないかと考えています。
 私たち人間は現在まで多くのことを獲得してきましたが、自分たちの思い込みを学び直す、アンラーニングする必要に迫られています。それこそがアートの教育/学習の意味です。既存の枠をこわして新しくつくり直し、自分たちが進むべき道を模索していく、そういう力をアート教育/学習が産み出すのではないか、そのためのアートは自由を基盤とした個人の活動、それが地続きで社会につながっているというプロジェクトになっていくべきなのではないか、ということです。
 私は「インクルーシブアート学習」の本の前に、『とがびアートプロジェクト』(*2)という本を造ったのですが、ここでも長野県で中平千尋という一人の中学校美術教師が同じ理念/実践で取り組んだことを紹介しています。もっと教育は自由であるべきだし、子どもたちは安全な(はずの)学校の中でもっと自由の練習をすべきということですね。自由の練習をして社会に巣立っていかないと社会の中で自由は得られない、そのためには学校教育はもっとカオスの場で良いのではないか、という提案がこの中にあります。心地よい学びの場をどうやってつくるのかその実践の中には、学習の中に入ったり離脱したりすることが自由にできる場所がもっと必要なのではないか、そんなことを考えました。

「障害当事者が主体的に自分の学びを自分でつくる」ということ

【大内】 本書のもう一つのコンセプトとして、「障害当事者が主体的に自分の学びを自分でつくる」ということもかかげられています。先ほども触れられていましたが、このことについてもご紹介いただけますか。

【茂木】
 支援性からの超克
 これまでにも触れてきたことですが、私が見てきた特別支援教育は非常に支援性が強いと感じています。つまり、先回りしていろいろなものをやってしまう。題材の流れに従って、子どもはこういうふうに動くだろう、だからその流れの上に道具や材料をおいておこうという発想になっている。そうすると子どもが順番に素材を食べていき、モルモットのようにその題材をやることになってしまいます。私はそれはやめてほしいと思います。こどもが迷わないような教育は危険だと。
 面白い題材を子どもたちにと考えるのは悪いことではもちろんありませんが、考え方がきちんとしていれば、題材ははっきり言えば何でもいいのです。(子どもも大人も)自分で考えろ、ということです。本書はこんないい題材がありますよ、指導法はこうですというお膳立てはしていません。方法優先主義的なHow to本をやめたいなということです。
 いま、お手軽なものが受けているので、仕方がない面もありますが、あらゆるものが簡便化されていますよね。実際、そういうものに人気があります。色彩の本で言えば、レシピ集のようなものがものすごく売れています。パッと見てすぐ使えるものが、やっぱりこの時代求められているのです。それを全部否定はしませんが、そこに至るまでのプロセスがどうなっているのかが、なかなか見えないところに問題があると思っています。食べる人たちは、出てきたものしか食べないので、つくった、開発した人たちの思いが届けられることはないのです。
 マニュアル化できない教育
 美術の教科書で危険なのは、少し文字は増えてきたのですが、メニューの絵しか載っていない、レシピがあるが意味づけがほとんど載っていないというところではないでしょうか。他の教科の教科書はまだ多少字が多くて、それらしきものがあるのですが、美術はメニューしかない、(料理のレシピ集)クックパッドは便利ですがそれだけだということです。
 日本人はマニュアルが好きで、美術教育でも○○式というものがあって、絵をうまく描くパターン化した指導法があります。描くのが不得手な子にとっては、それでその子が救われるというところにあります。これは一見良いことのように見えますが、では、その子は何を学んだのでしょうか。私はそこに結構問題点が潜んでいると感じます。効率、スピード、生産性など近現代社会が基盤にしているモダニズムは見えないものを否定します。しかしわかったことしか理解しようとしない、消費主義的な教育論に問題はないのか。(当然ですが)本当は、教育はマニュアル化できないのです。(達人と呼ばれる)先人の教育の遺産がなかなか引き継がれないのは、表面だけ真似してもうまくいかないことが実際には多いからです。結局教え方の上手下手ではなく、先生の子どもたちを思う心の問題になるのではと思います。
 もう一つは(繰り返しますが)方法優先主義という日本の教育ですね。学習指導要領と教科書がセットになっている強固な仕組みは美術教師の教材開発力を奪っています。現実的には、美術は週2時間にも満たないので、効率的にやらなければとてもやっていけないという仕方のない面もあるのですが。 でも、効率的にやっただけでは学べないことも多い。といっても、先ほど紹介した「とがび」(*2)の実践は3年間115時間の中である程度やろうとしたことの本質に至るということができています。
 一つの正解を求めない美術教育、アート教育
 だから、バラバラに考えないで、本人が学びたいように学ぶことができる、そういうものができてくれば、美術教育は変わっていくのではないかと期待されます。美術教育、アート教育に不正解というものはなく、たくさんの答えがあります。その一つひとつを全部認めていく必要があるのです。こういうことはわかっていることなのですけれども、私たちは、学校教育の中で正解を求めるという身体知を身につけてしまっているので、どうしても正解があると思い込んでしまう。そうすると、別の答えが出てきた時には受け入れられにくくなってしまいます。先生たちは自分の経験に基づいて、先ほどお話ししたように先回りして準備してしまう。そうすると、いわゆる導かれた成功(佐藤学)というものが起きてしまうことになります。先生が予知した方法論が、良し悪しが学校教育では良い教育の判断基準と思われていて、それが良しとされているところも結構あります。障害児教育ではそれが非常に強いのではないでしょうか。
 子どもたちは何で勉強するのかというと、先生に気に入られるためにやっているところもあるわけです。好かれて先生と一緒に何かやっていきたい。そういう善意と結びついて、学びが構築されていくわけですが、そこにやはり問題点もあるということを、もう一回きちんと自覚していくことが必要なのではないかと思います。言い過ぎかもしれませんが、そういう構造を理解する必要があるのではないかと思っています。

インクルーシブ教育の推進と多様性

【大内】 これまで、お話しいただいたことから、インクルーシブ教育の時代におけるアート/教育の役割も変わっていかなければいけないということが理解できました。お話しの中で、多様性につての誤解に注意しなければいけないということをおっしゃっていました。インクルーシブ教育を推進していくためには、この多様性の意味をしっかりとらえておく必要があるかと思います。このことについて詳しくお聞かせいただけますか。

【茂木】 私たちはアート活動によって、固定化された複数のイメージを解体し、関係性の中で学びます。ただし、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』という本を著した伊藤亜紗さんが指摘するように、“多様性”という言葉の氾濫には注意が必要です。伊藤さんはボストンに留学されて、その経験から次のようなことを紹介されています(*3)

「私は半年間、アメリカに住んだ経験がありますが、ダイバーシティ(=多様性)という言葉はほとんど耳にしませんでした。なぜなら、多様性は当たり前のことであり、多様性を前提に「ではどのような社会を構築していくか」が課題だからです。一方、日本では昨今あらゆる場面で「多様性」や「共生」といった言葉が謳われています。私は、それが、逆効果になっているように感じています。「みんなちがってみんないい」と言いながら、結局、お互い干渉しないようなバラバラな現状を肯定する言葉になっているのではないか。…重要なのはむしろ、一人の人間の中にある多様性です。視覚障害者であっても、家庭ではお父さんかもしれない、仕事上では先生かもしれません。「視覚障害者」という側面は、その人を構成する要素の一つにすぎません。多様な面があると思えば、関わり方の選択肢も増えるし、自分には見えていない面があるということで、相手を尊重できるようになります。」

 社会包摂(social inclusion)は、最初に分けてそれをあとで一緒にするというのではないということです。我々はもともと多様なのだととらえる考え方を強調していかなければいけないのでは、ということです。
 障害者と健常者を最初に区別して、マジョリティのなかにマイノリティを取り込んでいくという考え方だと、いつになっても交わることができないですね。お互いが勿論いろいろな意味で違うのですが、視覚障害者とひとくくりにしてしまった時に、視覚障害者の誰々さんにレッテル付けがされるわけです。そうすると見える○○さんと見えない□□さんとなった時に、それ以外の属性が消えてしまうわけです。
 伊藤さんは、半年間のアメリカ生活で経験したことは、ほとんど、ダイバーシティを耳にしなかったと言います。なぜなら、多様性を前提にどんな社会を構成していくのかということが当たり前というのがアメリカ社会だったからです。一方で、日本はこれだけ多様になっているのに、単一民族であると考える人がまだ多いのでは? 日本ではあらゆる場面で、多様性、共生ということが謳われているのに、それが逆効果になっていないか? みんな違ってみんないいといいながら、結局、互いに干渉しないようなバラバラの状態を構成するようなことになっているのではないでしょうかと、伊藤さんは指摘します。
 むしろ、一人の中にある多様性、つまり障害というのはその人を構成する要素の一つに過ぎないということです。だから、障害者だから一方的に何か助けなければいけないと考えるとそこにいつも上下関係が生まれてしまう。でも、本当はそうではなく、関係性はフラットなのですね。フラットな中でお互い助けたり助けられたりしているわけです。それはどんな人でも同じ、寝たきりで、全くしゃべることができない動かない人でも同じだと思うのです。私たちは、生きるエネルギーを交換しながら生きているわけです。そう思える、そういう社会をつくらなければいけないのにもかかわらず、何か「世界に一つだけの花」という歌に象徴されるように、多様性が商業ベースに乗って商売になってしまい、非常に表面的なことにすり替えられてしまった。本当の多様性はとても難しい、わかり合えないわけだから。わかり合えないけれど一緒に生きていかなければいけないのだから、お前だったら何ができる、できることをちゃんと言える社会にならなければなりません。もめ事になっても人間同士後でまた変わったとしてもその時々に結論を出して前向きに進む、そういうふうなことを練習する場が学校なのだ、教育の場なのだというのが私の考え方です。それはワークショップから学んだことです。
 多様性とは安易な「レッテル付け」を最初からしないことです。人々がばらばらになって分断(断片化)されてしまった社会を再統合するには、あえてそこに波風を立て、問題に注目させ結果的にカオスをつくりだし、全体性を回復させ自分なりの居心地のいい場所を創出させる。アートを社会化するためには、学校だけに閉じ込めないことも必要になると思います。そのためには、美術館などの社会でアートを学ぶ場所との連携が必要になってきています。

「インクルーシブ教育システムの構築」と「分けない」ということ

【大内】 最後の質問になりますが、「実践編:インクルーシブアート教材・題材開発」のポイントとして「分けない」というキーワードが強調されていて、インクルーシブアート教育の観点からは良く理解できました。いわゆる通常の教育や特別支援教育の枠組みを超えて「インクルーシブ教育システムの構築」という大きな枠組みでも「分けない」ということは、とても大事なキーワードだと言えます。改めて整理してお話しいただけますか。

【茂木】
 「インクルーシブ教育システムの構築」と分けないということ
 なかなか難しいですよね。逆説的に言えば、「インクルーシブ教育システムの構築」を障害児教育の側が推進しているところに、まず、問題があるのではないかと思います。本来「インクルーシブ教育システムの構築」は通常の学校の教育改革だということですよね。通常の学校の先生たちの考え方、マジョリティである通常の学校にいる大半の教師たちをインクルーシブ化する必要が「インクルーシブ教育システムの構築」の本質の中にあるわけです。障害児教育を担っている先生方はそんなことは最初からよくわかっていることです。
 「分ける」ことを深く理解した上での「分けない」
 わかっていてもできないということもあるのですが、分けないといったのは、それは象徴的にいったことなのであって、私たちは科学の時代を作ってきたわけで、分けてるに決まってる、分けることによっていろいろなことをつくり上げてきました。ここは否定できません。ところが、分けすぎてしまったために起きている弊害が多くなってきているということですね。現在、益々断片化(分断)が進んできてしまっているのです。私はこの考え方をルドルフ・シュタイナーから学びました。彼は、このことがルネサンス以前から起こっていると言っています。近年それが強まっていることを感じています。問題が起き、改善のために規則を厳しくします。物事というのは、どんどん細かくなっていっています。きちんとしようと思うと細かくなるんです。規則が新しい規則を生み出し、私たちは自分がつくった規則に苦しめられることになる。(有機体であれば)部分には全体的な性質が含まれているはずです。つまり、本質的なことを考えると、もっと全体を見る必要があるのです。発達障害という新しい障害児が生まれています。それは、「昔からあった「事象」が、新しい「問題」として顕在化している」(*4)。つまり「現実は変わっていないのに、私たちが現実に対処する柔軟性を失い認識や態度が画一化しために、何でもないことが「病気」と判定されるようになった」(吉岡洋 *5)というわけです。分けることが物事の全体=本質を見えなくさせています。
 「分けない」ということの大事さをわかりながら分けていくという科学的な世界観の中で、私たちがいかにバランスをとっていくのかというのが、私が言っている「分けない」ということです。
 分けているのに決まっているのですが、分けることがベースになっている社会の中で、全体を見るということをもう一回見直そうということです。癌細胞を退治することができても、人間が死んでは意味がないということです。そういうことが現実に起きているわけですね。全体を見るのか部分を見るのか、部分と全体は小宇宙と大宇宙の照応関係に在る、これが「分けない」の基本理念ということになります。
 「分けない」ことと教材開発
 教材開発を具体的に進めていく中で、やはり、先ほど言った、美術がコト(出来事)であるということ、コンセプトであるということをおさえて理解してもらう、体験してもらう、腑に落ちてもらうことが必要だと思ったんですね。そうででないと、見えない人は触れないものは全部わからないことになってしまいます。そうではなくて、感じる/考えることの両方が美術なんだということが理解されると、それは見えても見えなくても同じなのではないかということです。たとえば、去年のみんぱくの「ユニバーサルミュージアム展(広瀬浩二郎)」で触れる大きな日本画がありましたが、あれはすごくいい体験でしたけど、でも本当の日本画が岩絵の具のざらざら感だけから伝わるもので絵が成り立っているわけではない。荒々しい作品の表面の裏(奥)にどんな作家の魂が入り込んでいるのかということを理解する必要があります。言葉も含めて、あらゆる感覚=情報を総動員して作品の魂=熱量を伝えること、それが鑑賞ということです。
 それで、私が考えたのは、美術の世界を大きく変えたといわれるマルセル・デュシャンの「泉」という作品です。男性用の既成の便器を、言ってみればホームセンターから買ってきて、偽のサインをして展覧会に出したところ、それが20世紀の美術を大きく変えてしまいました。つまり、(アートは)モノではなくてアイデアなんだ、コンセプトなんだということです。それを見えない人たちに理解してもらうことがとても重要だなと思って、その題材開発をしました。
 触るのは簡単です。便器を触るだけですから。だけど、それだけでは何だかわからない。それに至ったデュシャンの思考プロセスを反芻するというか追体験してもらいました。兄弟で作家だったデュシャンは兄貴たちに乗り遅れたために、短時間で急速に現代アートを学び、様々なイズムをいわばスクーリングしながら反芸術に至ります。例えば、現代美術の始まりがどこからかは難しいのですが、印象派は光を粒としてとらえ、赤青黄の基本色をドットとして併置混色するという絵画ですが、丸シールで教材化しました。次はキュビズムです。ピカソやブラックは一つの画面の中に、右から見た視点と正面から見た視点を同時に描くという方法を開発しました。「黄色の背景の女」(1937)を触図化・パズル化しました。次は、動くキュビズムでデュシャンの新しい芸術です。(連続写真で運動を表現した)マイブリッジの「階段を降りる女性」を触図化して触ってもらったりとか、デッサン人形を歩く格好にして触ってもらったりとか、歩く運動を理解し、デュシャンの「階段を降りる裸体、No.2」(1912)の作品鑑賞のための教材化を試行しました。このとき開発した首胴体と手足が動くパズル教材はとても好評でした。線画の蝕図ではわかりにくいことがパズル化によって少し解消されたようです。このようにデュシャンの思考を反芻する触る教材学習を丁寧にすることによって、最終的に「泉」=便器という反芸術(ダダイズム)に至ったという道筋を理解してもらうことに取り組んだのです。そうしたら再度便器を触ってもらった時に、全盲の参加者から「すごくすっきりした」という声が上がりました。何ですっきりしたのかって聞いたら、「見える人にもわからないことがあるんだ。それは私たちと同じなんだ。」見える人にもわかったりわからなかったりすることがある、それは見えても見えなくても美術は同じなんだ、そういうすっきり感があったと、言ってくれたのです。この言葉によって、自分は「アートは見えない」を明確にできたと実感しました。こうしたことをもっときちんと丁寧に研究していけば、美術/教育は根本的に変わるのではないか、そういう可能性を見た瞬間でした。

まとめ

【大内】 今回は、インクルーシブ教育と教科教育を考えるシリーズの第一弾として、アート/教育について取り上げました。ご紹介させていただいた『視覚障害のためのインクルーシブアート教育』という新刊書は、視覚に障害がある児童生徒のアート/教育について著した書物ではありますが、図工・美術教育の改革につながる視点が散りばめられていて、通常の教育の在り方の変革をも展望していることがご理解いただけたのではないかと思います。
 アート/教育は、共生社会を構築していくための基礎として重要な役割を担うことができるのではないでしょうか。興味を持たれた方には、ぜひ本書を手に取っていただけましたら幸いです。
 茂木先生、本日はありがとうございました。

*1:茂木一司(編集代表)、大内 進、多胡 宏、広瀬 浩二郎(編)『視覚障害のためのインクルーシブアート学習 基礎理論と教材開発』 ジアーズ教育新社、2022.
*2:茂木一司(著、編集代表)『新版増補とがびアートプロジェクト』‎ 東信堂、2021.
*3:伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』 光文社新書、2015.
伊藤亜紗准教授が考える“本当の多様性”とは;
https://www.titech.ac.jp/public-relations/research/stories/next02-ito
*4:発達障害は病気ではなく「脳の個性」治すべきものではない
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00369/092400001/?P=2
*5:吉岡洋Facebookより
https://www.facebook.com/hyshk/posts/5137353606317194