大濱先生の読み解く歴史の世界-学び!と歴史

幕末、開国の流れの中で

唐人お吉-物語化の背景

ハリスの下田着任

画像:唐人お吉/山口県藤辺さまより宝福寺の唐人お吉記念館へ寄贈 日本駐在総領事タウンゼント・ハリスは、1854(安政元)年3月3日に締結された日米和親条約の第11条に規定された官吏駐在権にもとづき、1856年7月にアメリカ軍艦サン・ジャシント号で下田に入港、下田奉行に駐在を要求しました。この官吏駐在権をめぐっては条文解釈上で日米間に大きな相異点がありました。日本側が駐在権をよんどころない時としていたのに対し、アメリカ側は両国政府のいずれか一方が必要とみとめた場合には条約調印から18か月後に官吏(コンサル(=領事)またはエージェント(=代理官))を下田に駐在させることが出来るとみなしていました。そのためハリスの下田駐在は、日米が相互の条文をもとに主張すれば、解決が困難なものであったのです。
 下田奉行は、ハリスの駐在を阻止すべく、先年の安政大地震で下田の町がいまだに大津波の被害から復興せず、江戸も被害が大きく人心が不穏な時勢なだけに、この度はひとまず退去し1年後に再び来航しては如何かと提案します。しかしハリスは駐在を強硬に主張して譲りません。そこで奉行所は、在住ではなく、一時的なものとして柿崎村の玉泉寺に宿泊させるという提案をしました。ここにハリスは、玉泉寺に8月5日に入り、翌6日に寺の前庭に星条旗を高らかに立て、「予はこの帝国における“最初の領事旗”を掲揚する」「疑いもなく新しい時代が始まる」との高揚した思いを日記に記します。
 こうしてハリスは、書記官兼通訳のヘンリー・ヒュースケンとともに、課題である通商条約締結に向けた交渉を始めることとなります。玉泉寺の生活では、2人の少年を召使として雇う一方で、ハリスが体調を崩していたために“看病人の名目”で女性の雇い入れを強く要請します。この“看病人”として玉泉寺に送り込まれたのが港町下田の船方相手の酌婦ともいうべきお吉とお福でした。お吉がハリス、お福がヒュースケンをそれぞれ担当したのです。

お吉、玉泉寺通いの果てに

 お吉とお福は、玉泉寺に通うにあたり名主・年寄の連署をもって、御用所申し渡しの心得方を畏まって承知した旨の請け書を提出しています。この玉泉寺服務規程ともいうべきものには次のような心得の箇条がもりこまれていました。

  • 一 両人とも経水相滞り、妊娠之模様相心得候はば、その段官吏へ申し入れ、かつ御訴え申し上ぐべく候事
  • 一 両人とも帰宿中はきっと相慎み、猥りなる儀これなきやう仕つるべく候事
  • 一 病気にて官吏住居へ罷り越し申さざる節は、その時どき御届け申し上ぐべく候事

画像:宝福寺 この心得方は、“看病人の名目”の裏に、夜伽の役があったことをうかがわせます。お吉は、病を理由に三夜でハリスから解雇されますが、支度金と解雇手当の55両という高額金を手にします。しかし解雇後のお吉は、「唐人お吉」と町の人々から蔑まれて言われ、船頭たちにも相手とされず、安政6年に下田から姿を消しました。その後、明治元年に横浜で昔の恋人大工の鶴松と同棲しますが長く続かず、4年に下田に舞い戻り女髪結いを営みます。その暮らしは、酒癖の果てに自暴自棄の乱酔で身を持ち崩し、ついに明治24(1891)年3月に下田から1キロ半離れた稲生沢川の門栗の淵(現お吉ヶ淵)に身を投じ、50歳の生涯を閉じたのです。

「唐人お吉」という物語の問いかけ

 お吉とお福は、幕末開国後はじめて外国人にかしずいた女として世間に喧伝され、『高麗環雑記※1』『涕泣輯書※2』『安政年間諸記事』などで紹介されています。しかしお吉とハリスの関係が世人の話題となるのは後のことで、新感覚派の作家十一谷義三郎が昭和3(1928)年に「唐人の吉」を『中央公論』に発表し、翌4年に「時の敗者唐人お吉」を『東京朝日新聞』に載せ、翌5年にもその続編を執筆するなどした“お吉モノ”の作品が注目を集めたことによります。ここに“唐人お吉”は、ハリスが体現する強国アメリカによって踏みにじられたお吉の悲恋物語とされ、映画、演劇、歌謡曲で世間に流布されたのです。この“お吉”ブームをうながしたのは、第2次山東出兵声明、済南事件、張作霖爆殺事件などにみられる昭和3年という時世、昭和6年の満州事変へと、中国に侵出して行く日本をめぐり、日米関係が時と共に緊張関係をましていく時代人心の空気がありました。
 ちなみに映画では、溝口健二監督が昭和5年7月に「唐人お吉」(日活)を、ついで昭和12年6月に池田富安監督の「唐人お吉 黒舟情話」(日活)封切られています。「黒船情話」封切りの翌月7月7日には盧溝橋で日中両国軍が交戦、日本は中国との全面戦争に突入、やがて昭和16年の真珠湾奇襲による「大東亜戦争」へと泥沼の戦争への道をひた走ることとなります。まさに“唐人お吉”の物語は、日米関係をはかるバロメーターともいえるもので、その関係悪化に符節を合わせるかのように登場してきたのです。
 “唐人お吉”なる物語にこめられた記憶は、開国を強要し、常に「理不尽」な要求を「文明」の名で強制してくるアメリカへの鬱屈たる思いを表明したものにほかなりません。こうした思いこそは、日米関係をめぐる日本国民の潜在的記憶として埋め込まれているがために、悲劇の女性「お吉」に己が身をなぞらえて、対米感情を研ぎ澄ませ、発散させることで、日本人たる「愛国心」を満足せしめたのです。ここには、岩亀楼の喜遊※3に託された攘夷の心情に共通する世界があり、愛国心なるものを言挙げする言動の根がうかがえます。
 現在、歴史を問い質す営みに求められるのは、このような喜遊やお吉に仮託された物語を撃ち、己の足元を確かめる作業をふまえ、時勢に翻弄されない己が立つべき場を確立することではないでしょうか。