大濱先生の読み解く歴史の世界-学び!と歴史

「忠臣蔵」という物語

どんな時代の中で起きたことだったのか。

年の瀬を彩る物語

画像:「忠臣蔵 堀部弥兵衛と堀部安兵衛」歌川国貞作 歳末風物詩の一つが「忠臣蔵」をめぐる物語です。
 今もまたぞろ、大晦日のテレビが「忠臣蔵」を予告しています。まるで、日本人たるもの、忘れてはならない必見の物語、魂を覚醒させる物語として。かくまでして、毎年毎年繰り返して説き聞かされる「忠臣蔵」とは何なのでしょうか。

 「忠臣蔵」とは、下世話なものいいをすれば、頭に血が上った殿様が思考停止の末に一族郎党を路頭に迷わせたがために生まれた物語。放り出された浅野家の侍は、浪士となっても殿様の敵を討ち、「武士の鑑」として未だに語り継がれている復讐譚。この復讐譚は、手を替え品を替え、飽きもせず毎年登場し、日本という国に鋳込まれた記憶として、日本国民の遺伝子とは何かを問いかけているようです。「忠臣蔵」に込められた復讐心の遺伝子こそが日本の国民精神の器を形つくっているのかもしれません。「復讐するは我にあり」との思いこそは民族の心といえば、毎年語り聞かされる「忠臣蔵」によせる思いに託された心のありかも読めるかもしれません。「美しい国」日本の原器はこの復讐譚にありとすれば、日本人たるものの「誇り」の根が見えてくるのではないでしょうか。逆になんとも貧相な「品格」よとみれば、そもなんとも悩ましいのが「忠臣蔵」をめぐる世界といえましょう。
 そも「忠臣蔵」をこのように説いたら、腹立たしく思う人もありましょう。そこはそれ、「忠臣蔵」として語られることになる物語が生まれてきた事件を整理し、事件に託されて語り継がれてきた世界をたどることで、己が場を歴史に確かめる作業をすることとします。

18世紀第一年目の事件

 1701年、元禄14年3月14日、江戸城松の廊下で、播州赤穂の城主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が高家筆頭の三河吉良の領主吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)に刃傷に及ぶ事件がおこりました。時に東山天皇の勅使と霊元上皇の院使を城中に迎える日の出来事だけに、接待役にもかかわらず事件をおこした浅野長矩は、即日切腹、家断絶、城明け渡し、領地没収の処分を受けますが、接待の最高責任者吉良義央にはなんの咎めもありませんでした。
 翌元禄15年12月14日夜から15日朝にかけ、主人を失い、城を明け渡した浅野の浪人たちが、元家老大石内蔵良雄(おおいしくらのすけよしたか)の指揮の下で吉良邸に乱入、上野介義央の首をとり、東京芝高輪の泉岳寺にある浅野長矩の墓地に持参しました。

 18世紀冒頭、赤穂浪士が世間を騒がせたころのヨーロッパでは、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルド一世(1640年-1705)がオーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王として君臨、オスマン帝国の第2次ウィーン包囲を撃退、1699年ハンガリー王国を奪回し、大国復興への足がかかりを築き、ウィーンが華の都として発展していく時代です。徳川の平和の御世を騒がせた「忠臣蔵」と呼ばれ花のお江戸の物語を遠きウィーンの宮廷にやがてモーツアルトが登場してくる世界と重ねて想像力の翼を飛ばして、時間を旅してみても面白いのでは。そのためにも事件がどのように語られたかをみておきましょう。

浪士たちの処分

 この殿中刃傷事件は、吉良邸襲撃で幕を閉じ、「赤穂事件」「赤穂一件」「赤穂浪人復仇事件」「赤穂義士復讐」なる名称で呼ばれ、物語化されて「忠臣蔵」となったのです。なぜ浅野が刃傷に及んだのかは、憶測されはするものの、不明です。時は徳川五代将軍綱吉の御世、元禄文化の花開いた法と儀礼の「文治世治」が展開し、徳川の平和が制度化していく時代のこと。そうした時代の刃傷事件。将軍綱吉は、朱子学を講ずるほどの学問好きで、朝廷からの勅使を迎えた場での事件だけに、喧嘩両成敗の慣例を無視して浅野を厳しく処断し、吉良には見舞いをさしむけました。しかし赤穂の遺臣の復讐劇には感激したようで、「義士」としての助命論を期待します。
 赤穂浪士の処分は、林大学頭鳳岡(はやしだいがくのかみほうこう)が武士の鑑として助命論を説いたのに対し、古学の荻生徂徠が「義士」として切腹させるべきとの法治の判決を主張します。かくて元禄16年2月に浪士たちには切腹が申し渡されました。遺骸は、泉岳寺に送られ、浅野の墓の周囲に葬られました。その戒名にはすべて「刃」と「剣」が付けられています。
 ちなみに指導者大石良雄は「忠誠院刃空浄剣居士」、元京都留守居番の小野寺十内秀和は「刃以串剣信士」等々。ここには、自然な心ばえによる治世の代が終り、法にもとずく作為によって良き治世を目指すべき時代が来たことがうかがえます。幕府の統治イデオロギーの変化を物語る事件が赤穂一件にほかなりません。

事件の背景といわれるもの

 なぜに刃傷におよんだかはよくわかりません。
 その一は、武家の儀礼を担当する高家筆頭の吉良に浅野が指導料を十分に届けなかった、賄賂をしないが故に恥をかかされたことへの遺恨。
 その二が、三河吉良の塩が上質な赤穂の塩に市場で敗れたために、吉良から何かと浅野が疎んじられたことへの遺恨、等々。
 強欲吉良に対して、浅野は清廉な武士の典型という構図で物語りが語られていきます。ここには時代が期待した武士の規範への幻想が託されているようです。ちなみに吉良の殿様は、矢作川に黄金堤を築いて治水につとめるなど、領内の民政に心をつくした人物で、領民から慕われていました。そのため三河吉良の地では、「忠臣蔵」を上演する旅芝居がかかることがありませんでした。尾崎士郎の『人生劇場』はそんな吉良の人情を描いています。日本全国が「忠臣蔵」一色に塗りつぶされるなかで、三河の地には己が郷党への密かな誇りが貫かれていたのです。

 世人は、吉良領民の悲愁に目を向けることなく、赤穂浪士の吉良邸討ち入り、復讐劇を期待していたいふしがあります。ちなみに浅野の城地没収、家名断絶で赤穂の家臣が浪々の身となり、故地を離れていく状況を「大石の蔵とはかねて聞きしかど よくよくみればきらず蔵かな」との落首が人の口にのぼったように、泰平の代を破る、なにかことあれかしとの期待が世間にはありました。その思いを討ち入りは果たしてくれたわけです。いわば浅野内匠頭刃傷事件は、吉良邸討ち入りとなり、浪士たちの切腹、吉良家の領地没収、浪士の遺児への処分で一件落着。しかし浪士は、「平和」の御世に封印された閉塞感を打開したいという世人の見果てぬ夢が託され、「義士」と呼ばれ、その行動をめでられたのです。室鳩巣は、『赤穂義人録』を前田家に献上し、事件の経過を描き、浪士の行動とその志を賛美し、巻二で浪士個人の伝記を述べ、後の義士銘銘伝への道をひらきました。

 いわば赤穂浪士の事件は、武士が戦士であることを忘却し、「士道」に名分に官僚として己が身を律していかねばならなくなった過渡期の時代に、戦士たる本分を世に問いかけた出来事にほかなりません。事件によせる反応は、統治を乱す騒擾との思いがある一方、いまだ確立していない「士道」のイデオロギーを体現した一典型をめぐる思惑が生めるものでした。それがために儒者は侃侃諤諤と己の場を論じたといえましょう。まさに徳川統治の転換を代弁したところに、「忠臣蔵」とよばれることとなる赤穂浪士の復讐譚があります。それだけに物語は、年の暮れに想起され、己が人生行路と重ねて総括する営みに時代の気分を託し、「日本人」たる我を発見する場とみなされたのだといえましょう。
 「忠臣蔵」という物語は、時代を生きる者にとり、世に入れられぬ己の見果てぬ夢、生きて在る己の存在を登場人物の誰かに仮託することで、報われぬ日々の営みを癒す世界だったのではないでしょうか。
 この復讐譚がどのようにして時代の相貌を託されたかを次回は語ってみましょう。