大濱先生の読み解く歴史の世界-学び!と歴史

「御真影」物語
皇室写真ことはじめ

 一昔前、学校には奉安殿というのがあり、生徒は登下校時にこの建物に向かい最敬礼をしました。奉安殿には御真影と称された天皇の写真と教育勅語が収められていました。天皇の肖像写真はどのよう姿で撮影され、巷に出回り、やがて聖なる礼拝対象にされていったのでしょうか。

直衣をまとうたミカド

画像:明治天皇 明治天皇の肖像写真が「御真影」になる過程は、西洋諸国における国王や国家元首の肖像に関する取り扱いを学ぶなかで、天皇の位置づけを模索した歩みでもあります。その歩みは、被写体としての天皇像を「尊厳」なものとなし、神聖不可侵なる天皇の創出を目指す営みでした。天皇をはじめ皇室の写真はどのようにして世間に流布したのでしょうか。
 明治天皇を撮影した最初の写真は、天皇が19歳の折り、1871(明治4)年11月に横須賀造船所に行幸した際の記念写真です。この写真は、小直衣(このうし)・切袴(きりばかま)を着け、金巾子(きんこじ)を冠り、扇子を手にして椅子にもたれた若き天皇を中心に、その後方に侍従が太刀を捧げて立ち、右前方に直垂姿の太政大臣三条実美、左前方に洋装姿の内豎(ないじゅ)2人がそれぞれ座り、他に外国人2人をふくむ20人のものからなる集合写真です。20人のうち、羽織袴姿が3人、他の17人が洋服姿です。ここには、衣冠束帯姿の天皇と太政大臣を洋装姿の諸臣が囲むもので、開化の過渡期がうかがえます。いわば宮中はいまだ古き伝統の帳から解き放たれていません。

 明治天皇と皇后美子(はるこ)の肖像写真は、1872年7月頃に、写真師内田九一に撮影させたものが最初だといわれています。この写真は同年8月5日に英照皇太后に贈られます。皇太后は、天皇と皇后の写真に好奇心を募らせたのでしょう、9月3日に宮城へ行啓して内田九一を呼び出し、撮影してもらいます。ここに九一は、天皇・皇太后の写真大小合わせて72枚を上納しました。この時の天皇の肖像写真「宸影」は、一枚が束帯で、もう一枚が直衣に金巾子の冠を着けたものでした。その姿には、直衣、金巾子が象徴しますように、文明の風に犯されない皇室が読みとれます。
これら天皇の写真撮影は、1872年2月に岩倉使節団の副使大久保利通・伊藤博文が帰国した際、全権大使岩倉具視の意向で「御写真拝戴」を宮内省に申請したことをふまえたものと思われます。宮内省は「御写真」が出来たら外務省を経由して送るとしましたが、5月の両副使の再渡米に間に合いませんでした。ついで、11月15日には、アメリカ駐在公使上野影範とイタリア総領事中山譲治が赴任にあたり、公使館・領事館に奉掲するための「御写真」下賜を宮内省に申請します。
  在外公館への「御写真下賜」は、すでに宮内省の省議で決定しておりましたが、「全部謹製」されていないこともあり、いまだ下賜されていませんでした。イタリア領事館には、25日に中山譲治が出発するというので、この日に渡されました。

軍人天皇の登場

画像:明治天皇 いわゆる「御写真」と称する天皇の肖像写真撮影は、諸外国においては在外公館のみならず広く国民が家などにその国の国家元首の写真が掲げられているという文明の風に習い、文明国日本をめざすための一里塚ともいうべきものでした。しかしその姿にはなお古き王朝の影が強くきざまれていました。こうしたなかで1873年2月には馬上の天皇が撮影されたように新しい君主像への模索がはじまっていました。
 明治天皇の写真「御写真」は1873年6月4日に奈良県に下賜されます。奈良県知事四条隆平が、新年と天長節の祝日に県庁に掲げ、県民に広く仰ぎ拝ませたいからと申請したことによります。各府県は、奈良県への下賜を知り、競って申請をします。こうして11月7日に下賜された写真は、宮城内写真場で10月8日に撮影されて、10日に出来上がったものです。この写真は、全身像と半身像の二種で、いずれも新制のフランス式軍服を身に着けた洋装姿です。大小二つの全身像の写真は、帽子を卓上に置き、剣をついて椅子によりかかっています。これらは、各府県だけでなく、来日していたイタリア国王の甥をはじめ11月3日の天長節祝宴に列した勅任官など35名の者に、大型の皇后の全身像の写真とともに下賜されます。ここに天皇は、軍服姿をさらし、皇后と一対の写真を配付することで文明国日本の君主たることを誇示したわけです。

「御写真」が夜店でも売られた

画像:明治天皇 こうした天皇の写真は、「御写真」として、在外公館、地方政庁に渡され、天皇に最も近い勅任官が賜ったように、天皇に信任された証とみなされていました。それは、西洋文明国の習いを受けた営みで、天皇の統治が「御写真」の普及とともに認知されていくことを物語ってもいます。それだけに天皇の写真は、世間の話題となり、評判をよびました。東京では、人気役者・芸者や政府顕官の写真と一緒に天皇の写真が夜店などでも売られていました。写真師内田九一は、この「御写真」人気に目をつけ、「宸影」を販売すべく己が撮影した種版の下付を東京府に申請します。
 しかし政府は、1874年3月24日に申請を不許可とし、東京府に「御写真」を売買するいかがわしい者を監視するようにとの通達を出しました。ついで1876年3月には神奈川県に「御写真」売買の取り締まりを命じます。天皇の写真が巷で役者芸者の顔姿と並んで売買されていく風潮は聖なるものの冒涜とみなしたのです。かくて政府は、天皇を神聖なる礼拝の対象と位置づけ、国家の形をととのえる諸策を展開します。
 まずは天皇をめぐる皇室写真登場一件の講釈をこれにて閉じ、次回は奉安殿なる世界に封じ込められていく天皇と「臣民」たる国民の物語を語ることにします。