大濱先生の読み解く歴史の世界-学び!と歴史

三都物語 ―幕末動乱のその先に―
新国家をめざした奠都論

東の京(みやこ)

 明治天皇は、1867(慶応3)年12月9日に「王政復古の大号令」を下し、翌68(慶応4)年1月の鳥羽伏見で幕府軍を敗走させ、2月「親征の詔」を下し、将軍慶喜追討の兵を進めます。3月「五箇条の誓文」で新国家の方針を内外に誇示し、4月11日に江戸開城がなると、7月17日に江戸を東京と改称し、9月8日に「明治」と改元、一世一元の制を定めます。
 日本列島では、薩摩・長州を主体とした「天朝政府」を誇称する西の政府を「薩長幕府」とみなし、江戸将軍家を支持する会津・仙台などの諸藩が5月に奥羽越列藩同盟を結成した東の政府と対峙していました。この状況は、鳥羽伏見・江戸開城・会津落城・箱館五稜郭開城(1869年5月18日)までの「戊辰内乱」と称されています。
 西の政府は、天皇の下にある「正統」な権力であることを日本列島の住民に知らせ、内外にその存在を明らかにせねばなりせん。ここに天皇は、「御所」「内裏」から外に出て、「玉体」と言われていた生身の姿を民の眼にさらし、新しき王たる道を歩むことになります。その第一歩が68年3月に実施された親征のための大阪行幸であり、9月からの東京行幸、翌69(明治2)年3月の東京再幸になります。
 東京行幸は、古くより「蝦夷」の地であり、徳川将軍家の恩恵によせる思いが強い「東の政府」の下にある民に、天皇の存在を告げ知らしめることをめざしていました。行幸は、公卿らの反対を押し切り、強行されます。再幸後の天皇は、69年2月24日に太政官を東京に移し、京都を留守官とします。政治の中心は、平安京以来の京である「京都」ではなく、東京に移ったのです。これが「東京遷都」といわれるものです。

西の京

東京の皇居・二重橋 ここに天皇は、東京に居を構え、東日本への行幸を営むことで日本列島を一つの国にすることに努めていくこととなります。京都の民は、天皇の再幸に反対し、還幸を待ちわびていました。しかし1971年8月23日に京都の留守官が廃止され、「東京遷都」が確定します。この「遷都」とは何でしょうか。
 京都は、平安京以来の京師(みやこ)でしたが、東の京たる「東京」の成立により、「西京」と呼称されています。明治前半期には、「西京同志社」などと喧伝されていましたように、「京都」より「西京」が一般的に用いられています。ここには、日本の京師が西の京たる京都と江戸が東京となることで、二都とみなされていたことがうかがえます。事実、西京は皇城の京として1948年まで位置づけられていたのです。
 このことは大日本帝国憲法が発布された1889年2月11日紀元節の日に制定された皇室典範に読みとれます。皇室典範第2章「践祚即位」の第11条は「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」と定めています。『皇室典範義解』はこの条項を次のように説いています。

維新ノ後明治元年8月27日即位ノ礼ヲ挙行セラレ臣民再ヒ祖宗ノ遺典ヲ仰望スルコトヲ得タリ、13年車駕京都ニ駐マル、旧都ノ荒廃ヲ歎惜シタマヒ後ノ大礼を行フ者ハ宜ク此ノ地ニ於テスベシトノ旨アリ、勅シテ宮闕ヲ修理セシメタマヘリ、本条ニ京都ニ於テ即位ノ礼及大嘗祭ヲ行フコトヲ定ムルハ大礼ヲ重ンシ遺訓ヲ恪ミ又本ヲ忘レサルノ意ヲ明ニスルナリ

 京都は、「旧都」とされたものの、皇位継承の大典を営む京師とされる皇都でありつづけたのです。いわば西の京は、宮中儀礼の府として大嘗祭を営む場たる内向きの祭祀を司る「夜の京」であり、東の京は外向きの「昼の京」として政治の首都とみなされたのです。この権力の表と裏をめぐる役割分担は、1888年10月7日に造営中の皇居が落成した時、宮内省が10月27日より「宮城」と呼ぶとの告示にもうかがえます。皇居は京都の御所との思いが読みとれましょう。
 しかし敗戦後、この地位は1947(昭和22)年に新皇室典範で「京都」という場所の指定が削除され、ついで48年7月1日に皇居を宮城と称する1888年の告示が廃止され、東京にある天皇の居所が名実ともに皇居となることで終焉します。宮城前広場は皇居前広場となります。かくて現天皇の立太子の礼、即位礼・大嘗祭は皇居で営まれました。まさに東の京たる東京は、皇都をも併せ持つ名実ともに日本の首都になったのです。

幻に終わった北の京

 新国家の造形をめざす政府には、西京、東京の2都とは別に、新開地北海道に北の京を造営し、開拓を進め、皇威を強固にしようという構想がありました。会計検査院長岩村通俊は1882年11月に太政大臣三条実美に「奠北京於北海道上川議」を提出します。この奠都論(てんとろん)は、北海道の中心たる上川の地、現旭川に京師を設置するとの提言です。かくて北京構想は、政府の賛同を経て宮中の承認もあり、具体化されそうになりましたが、人民輻輳(ふくそう)の地が京師であるとの法制局意見でついえます。
 しかし奠都構想は、北京ではなく、北の離宮として推進されます。それは現旭川郊外の神楽岡に上川離宮を造営する計画です。この計画は諸調査がなされましたものの、日清戦争で国家予算が逼迫(ひっぱく)したこともあり幻となりました。幻の北京―上川離宮の史跡は旭川の鎮守上川神社にみることができます。

 日本の近代は、西京、東京、北京という三都物語として問い語れば、新しい地平が見えてくるのではないでしょうか。あるいは、ディケンズの作品『二都物語』にならい、京都・東京・北海道を舞台とした明治という時代の物語を『三都物語』として描いてみたらどうでしょうか。

なお、関係資料をアジア歴史資料センターのデジタルアーカイブズで見てください。参考までにレファレンスコードを記しておきます。

御署名原本明治22年皇室典範
A03020029800
皇室典範義解
A04017235400
太政官沿革志
A04017226600
上川離宮建設地調査
A07062439600