“法教育”特集・第二弾 コラボ-トピックス&シネマ-

画像:コラボ 学び!とシネマVol.30「裁判映画傑作選」

“法教育”特集 コラボ -トピックス&シネマ-

来年の5月21日から裁判員制度が実施する。国民が裁判員として刑事裁判に参加し、被告人が有罪かどうか、有罪の場合どのような刑にするかを裁判官と一緒に決める制度がスタートする。学校現場でも、社会科の授業を中心に試行錯誤しながら法教育を実践していることだろう。
2007年10月号に続き、「まなびと」法教育第二弾で、今一度考えてみたい。

「みんなと共に自分らしく生きる」ための教育

 「法」「裁判」「正義」。こうした言葉を聞くと、また難しい話が始まったなと思う人がほとんどでしょう。いじめ、教員の不祥事あるいは学級崩壊など、多くの課題を抱えた学校にとっては、これらの言葉は、子どもや親の権利主張、学校の指導・監督責任といったことと結びついて、忌まわしい言葉だと思われているかもしれません。
 学校だけでなく、そもそも「法」や「正義」が、「和」を重んじる日本社会にはそぐわないのだという意見もよく耳にします。心を穏やかにして仲睦まじく暮らしてきたのが伝統的な日本社会なのであって、そこに「法」だ「正義」だと異質なものが入るからおかしなことになるというのです。しかし、そうした社会に憧れはするものの、それが現実ではないということもまた、現場の先生方は肌で実感しておられることと思います。

いま学校教育に求められるもの

画像:土井 真一(どい・しんいち) 京都大学大学院法学研究科教授 「自由で公正な社会」の指針となるのが日本国憲法です。憲法というと、美しい理想であって現実の生活とは関係がないように思われがちですが、本当は、人間が長年にわたって社会の理不尽さと向き合い、苦しんでたどり着いた成果なのです。そこには、幾多の人間の喜びや悲しみが織り込められており、我々自身の現実のあり方と深く関わっています。その人間味のある英知に照らして、我々の社会のあり方を考えてみようかとなって初めて、日本国憲法はこの国のかたちになるのです。中学校教育においては、「国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと」が期待されていますが、それは国家及び社会をかたち作る者、つまり、「この国のかたち(憲法)」の担い手を育むということに他なりません。
 それでは、日本国憲法は、「この国のかたち」として何が大切だと訴えているのでしょう。「みんなとともに自分らしく生きる」ことのできる社会、それを築き、支えるためには何が大切で、何を考えなければいけないか。それを我々に問い続けているのが、憲法なのではないでしょうか。

 日本国憲法は、「みんなとともに自分らしく生きる」ことのできる社会を築き、支えていくことを求めています。そのうちで、自分らしく生きる、一人ひとりの存在のかけがえのないあり方を大切にしようということが、個人の尊重や基本的人権の保障であり、みんなとともに生きるのだから、みんなのことはみんなで決めようということが民主主義につながっています。それゆえにこそ、日本国憲法は、基本的人権や自由の保障と民主主義の実現をその両輪としているのです。

憲法・法教育の果たすべき役割

 法教育は簡単にできるのかといわれると、事はそう単純ではありません。なによりもまず、法というと専門用語が難解で、条文・判例も複雑であるということになりがち。しかし、それほど深刻に受け止めることはなく、法教育は、法の基本的な価値や考え方あるいは公正な判断力等の習得を目指すものであって、細かな条文解釈をするものではないのです。それでもまだ専門用語が難しければ専門家に聞けばいいし、また、難しいことを言っているから専門家が偉いわけではありません。難しいことをきちんと説明してくれるから専門家は偉いのであって、それが説明責任ということなのです。
 法教育において本当に難しいのは、そこに自明の答えがあるわけではないということです。例えば、「約束は守らなければならない」ということが道理だとしても、では、すべての約束が当然に守られなければならないのでしょうか。友だちがした悪事を黙っているという約束はどうでしょう。「約束は守らなければならない」という道理を言葉の上で理解するだけでなく、自分が生きていく上で実際に活かしていくということになると、様々な問題をきちんと考えていかなければなりません。この難しさは、人が共に生きていくことの難しさに由来するもので、責任ある大人は考え悩みながらも決断をし、その結果を引き受けていかなければなりません。法教育の重要性はまさにこの問題に関わるのであって、「法」という特殊な領域に関する知識の教授を目指すものでは決してないと思います。

 市民のための法教育としては基礎的な能力・資質、いわゆる「法的リテラシー」の習得に重点を置く必要があるでしょう。1)公正に事実を認識し、問題を多面的に考察する能力、2)自分の意見を明確に述べ、また他人の主張を公平に理解しようとする姿勢・能力、3)多様な意見を調整して合意を形成し、また公平な第三者として判断を行ったりする能力、そして、より根源的な資質として、4)自尊感情や他者に対して共感する力などを挙げることができます。法律の細かな知識ではなく、こうした能力こそが、法の中核的価値である「公正さ」と密接に関わるのです。ただ、こうした基本的能力の習得こそが、本当の意味で難しい。例えば、人の意見を聞くということ一つ取ってみても、たやすいことではありません。
 とはいえ、人の意見を公平に聞くことができるということは、「自由で公正な社会」にとって非常に重要なことです。なぜなら、他者の意見、とりわけ自分とは異なる意見を真摯に聞くということは、人にはそれぞれ意見があって、その意見を当然に表明することができるのだという前提を認めた上で、異なる意見を有する他者を自己と対等の存在として承認するという姿勢を伴っているからなのです。これは、まさに多様な価値観を有する人が共生するために、われわれ一人ひとりが身につけなければならない資質であり、そして、これこそが、憲法の「表現の自由」の意義を理解させることなのです。我々は、知識偏重といわれる憲法教育の根幹を、もう一度捉えなおす必要があるのではないでしょうか。

 法教育において問われているのは、子どもたちの在り方や学校教育の在り方だけではなく、子どもたちの目を通して、社会の在り方や、大人の力量が問われるのです。それゆえに、法教育は学校教育だけではなく、家庭や地域社会そして我々の社会全体の問題なのです。それが公民教育あるいは市民教育の本来の姿ではないでしょうか。
 法教育の意義が広く理解され、その取組みが広がることで「新たな時代の自由かつ公正な社会の担い手」が育まれていくことを、心から祈っています。