学び!と美術

学び!と美術

子どもの「作品」とは何か(『学び!と美術』100号記念)
2020.12.10
学び!と美術 <Vol.100>
子どもの「作品」とは何か(『学び!と美術』100号記念)
奥村 高明(おくむら・たかあき)

 「子どもの作品は(神聖なものだから)絶対トリミングしてはいけない」という人がいます。確かにそのような面はあるでしょう。学習指導要領解説にも「作品はかけがえのない子ども自身だ」と書かれています(※1)。でも、それは「作品」を「完成品」ととらえる意味ではありません。本稿では、子どもの「作品」とは何かについて考えたいと思います。

「作品」は切り取っていい?

 小学校4年生の頃、私は夏になると田舎にある従兄弟の家に泊まりに行っていました(※2)。ある日、夏休みの宿題をかこうとなり、家の庭に並び座って、道を隔てた景色をかき始めました。ところが、なかなかうまくかけません。二階の一部だけは立体的にかけたのですが、全体がまとまらないのです(※3)。私は「ここはうまくいってるんだけど……(矢印部分)」とつぶやいたら、従兄弟が「先生が『うまくかけたところがあれば、そこだけ切り取ってとっておけばいい』って言ってたよ」と教えてくれました。私はその言葉にすごく安心し、強く「そうだ」と思いました。それから50年たちましたが、いまでも、この場面と出来事を鮮明に覚えています。
 幼児の頃、かくことがただただ楽しかったのに、いつぐらいから「作品」という「完成品」を求められるようになったのでしょう。できあがった「完成品」にすべて満足している子どもが何人いるのでしょう。子どもにとって「作品」の完成は、「うまくいった」というその子の部分的な思いよりも大切なことなのでしょうか。

子どもの造形活動を「作品」にする大人

 附属小学校の教官をしていたときの話です。ある研究会(※4)で図画工作部の後輩が研究授業をしました。中学年の題材で、自分を型取りそれをいろんな材料で飾るという学習課題でした。授業の後半、一人の子どもが、つくった「モノ」を窓から落とし始めました。何度も窓から落としては拾いにいって、それを落とすことを繰り返しました。その活動を、参観していた教育委員会の指導主事が指導講評で取り上げました。「自分の作品を大切にしないのは問題」で「適切に指導すべきだ」と言います。私は、即座に言い返しました。「それは違います。あの作品は、あの子自身です。あの子は、あの時、空を飛んでいたのです」。指導講評を否定するなど若気の至り、「失礼なことをしたな」と今は思います。
 確かに、道徳的には自分の作品を大切にするのは正しいことでしょう。でも、子ども側から見たとき、どうなのでしょう。子どものつくった何かを「作品」だと見るのは誰でしょうか。「作品」という罠にはまっているのは、大人のような気がします(※5)。それは、何度も窓から「作品」を落としながら、ヒラヒラと落ちていく様を見つめていた子どもの見方とは異なります。

「造形遊び」と「作品」

 図画工作は、行為をすることそのものから学ぶ傾向の強い教科です。特に「造形遊び」は、手順や方法を知ってから製作するというよりも、自分たちの活動を通して学ぶ性質を持っています。学習課題、材料、用具、場所、友達など、多様な資源と戯れる「遊びに近い即興性」が特徴で、子どもたちには「『造形的な活動をつくりだすこと』に浸ること」が保障されます。そこでは、表現は個人の内面に閉じ込められず、「作品」を仕上げることも強要されず、協同的に「行為を通して新しい『私』になる」ことが達成されていくのです。
 「造形遊び」には反省や願いなどもこめられています。「遊びと学習が学校教育で別物になってしまったことへの反省」「予定調和的な児童画の苦しさから子どもたちを解放し、即興性を造形活動に取り戻す願い」、あるいは「内にあるものを表出するという二元論的な表現主義への異議申し立て」などです。今、その考え方は絵や立体、工作、鑑賞などにも広がり、図画工作の学習指導要領と、現在実践されている多くの題材を貫いていると思います。
 本稿に関わる視点としては、「造形遊び」では子どもたちが「作品の制作をめざさない」ということでしょう。子どもがつくるのは活動であり(結果的に「作品」になったとしても)、その過程で自らの成長や発達を(同時に友達やコミュニティの発達を)学ぶことが重視されています。あえて言えば、材料や用具、関わる人々、時間や場所などの全体が「作品」なのです。

通りすがりの人にいじられる「作品」

 今年、久しぶりにボーダレス・アートミュージアムNO-MAの展覧会に行きました(※6)。そこで展示されていた「作品」の一つは、数年前に亡くなられた坂本三次郎さんの作品の再現でした。坂本三次郎さんは岩手県の福祉施設に入居していた方で、日々、拾い集めてきた草、木、石などを大地に並べ置く行為を続けていました(※7)。再現したのは美術家の椎原保さん、「よしきりの池」とよばれる藪やため池のある場所で、広場やあぜ道に石や枝、草などを様々な方法で並べていました(※8)。椎原保さんにいろいろ話を伺うと面白いことを教えてくれました。次の日になると「作品」は、並び変えられていたり、並ぶものが換えられていたりするのだそうです。近所の人や通りすがりの人などが、いつのまにか(おそらくそれを「作品」とも思わずに)「参加」しているらしいのです。それを含めて坂本三次郎×椎原保の「作品」なのだそうです。
 ここで「作品」は、ガラスケースやパーティションに閉じ込められていません。材料、場所、街、作家、鑑賞者、参加者などはすべて同じ地平に広がり、協働的で開かれた創造性がそこにありました。必要なのは、「完成品」という成果を重視する創造性ではなく、「作品」を越えた関係性や全体に着目するまなざしです。そこに居合わせるだけで「作品とは何か」「表現とは何か」「鑑賞者とは……」「街とは……」など、様々な問いが広がっていきました。

 子どもの「作品」を大切にするということはどのようなことでしょうか。
 まず、「作品」を固定的・教条的にとらえる必要はないと思います。これまで「学び!と美術」で紹介してきたように(※9)、学習場面では、自分たちが一度つくった作品を切り取ったり、壊したりすることも必要です。
 そして、「作品」であるかどうかは、大人が決めることではなく、子ども側から見ていくべきことでしょう。子ども自身「作品」をどのようにとらえているかが大事な視点であり、案外、子どもは「作品の全体にいる」というより「作品の部分にいる」ことが多いものです。
 私が『子どもの絵の見方』(2010)を書いた理由もそこでした(※10)。あえて子どもの「作品」をトリミングし、拡大し、子どもの思いや考えを「作品」から取り出そうとしました。大人が、子どもの思いや考えに気付くことによって、子どもの「作品」は、はじめて完成すると思ったからです。
 「坂本三次郎×椎原保」の視点も重要です。坂本さんの「作品」は、草、木、石などの材料から生まれ、施設と関係者、さらに多くの人々を巻き込みながら、今も生き続けています。個人に閉じ込められた「作品」ではなく、社会に開かれた「現象」となっているのです。
 「作品」は部分に宿ることもあれば、大人と子どもの関わりから成立することもあります。「作品」自体が時間や場所を越えて広がることもあります。おそらく、「作品」と私たちが呼ぶものは、前号の有元先生の言葉を借りれば、様々な動きや流れの中の「スナップショット」なのでしょう(※11)。その全体をまるごととらえることが、子どもの「作品」を大切にすることではないでしょうか。

 最後に『学び!と美術』98号で紹介したロイス・ホルツマンの言葉を紹介しましょう。彼は『「知らない」のパフォーマンスが未来を創る』(2020)という近著の中で、次のように述べています(※12)

「私たちが生きられた生(lives-as-lived)において、人類はありのままの自分でも、あるべき自分でもありません。私たちはなりつつある自分なのです(太字筆者)」

 これを「作品」に置き換えれば、実体論的な「ありのままの自分」は「作品」ではなく、切迫感のある「なるべき自分」も「作品」ではなく、学習課題、材料、周りの人々、コミュニティや社会と関わりながら「なりつつある自分」こそが「作品」なのです。本稿で取り上げたエピソードも、すべて同じことを指摘しているように思います。
 「作品」という見方を拡張しましょう。子どもが、身の回りの資源から、活動を、自らを、自らの周りを創造していることを、造形活動という「作品」から実感しましょう。それは大人である私たちにとっても、子どもの頃に忘れた何かを取り戻すために大事なことだと信じます(※13)。だってパブロ・ピカソもこういっているではないですか。

『全ての子供たちは芸術家だ。問題となるのは、子供が成長するときにどうやって芸術家のままであり続けるかということだ。』

 よいお年をお迎えください。

※1:小学校学習指導要領解説図画工作編「作品や活動は,表現した人そのものの表れであり,作品や活動をつくりだすということは,かけがえのない自分を見いだしたりつくりだしたりすることだといえる。」 日本文教出版、2018、24p
※2:武家屋敷の並ぶ宮崎県の日南市飫肥地区
※3:当時かいた絵を記憶に基づいて再現したもの
※4:附属学校が授業を提供し、指導主事が講評や授業参観の方法について研修するクローズドな研修会でした。
※5:100年以上前、1914年に、デュシャンはあえて街で買った男性用便器を拒絶されることを見越して展覧会に出品しました。そして「作品化するのは、誰だ」と問い、様々な資源から共同的につくりだされる美術という概念を批判したと言われています。
※6:ボーダレス・エリア近江八幡芸術祭『ちかくのまち』。2020年9月19日(土)~11月23日(月・祝)
https://www.no-ma.jp/town_of_perception。ボーダレス・アートミュージアムNO-MAのおかげで「アール・ブリュット/交差する魂」(2008年)で澤田真一さんの作品に出合い、「対話の庭 Dialogue of Garden―まなざしがこだまする」(2013年)で講演とギャラリートークを行ったときに坂本三次郎さんを知ることができました。
※7:以下を参照。NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ[AIT/エイト]『「リビング – 日々の世界の奏でかた」展』
http://www.a-i-t.net/ja/future_archives/2014/01/living-exhibition.php
※8:坂本三次郎 × 椎原保『Untitled』
※9:学び!と美術<Vol.95>『題材とステージ』で紹介した実践
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art095/
※10:奥村高明著『子どもの絵の見方―子どもの世界を鑑賞するまなざし』東洋館出版社、2010
※11:学び!と美術<Vol.99>『対談:ともにかなでる教育実践』の有元典文先生の発言より
https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/art/art099/
※12:ロイス・ホルツマン著、岸磨貴子・石田喜美・ 茂呂雄二翻訳『「知らない」のパフォーマンスが未来を創る―知識偏重社会への警鐘』ナカニシヤ出版、2020、99p
※13:私たちの業界ではよく引用される言葉です。パブロ・ピカソの英語名言・格言50選!
https://english.chicken168.com/pablopicasso/

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